気力・体力・原子力 そして 政治経済

気力・体力・原子力 そして 政治経済

原子力と経済についてはうるさいですよ!
 (旧有閑爺いのブログ)

 「カレンシー」は、普通の場合「通貨」であるとされます。「通貨」は日本では日本銀行が紙にしかるべき事柄を印刷して発行するものであって、日本銀行券という券面を持つ書面です。
 
 で、世の中には表れた事象を素直に理解することを好まない連中、つまり「へそ曲がり」がうじゃうじゃいます。
 日本銀行が発行する日本銀行券という券面を持つ書面つまり通貨(発行という業務が行われた結果現れた物)に関して言うと、「通貨=カレンシー」は、どう見ても印刷物(紙になにがしかの情報を印刷した物)なのですが、「MMTこそ救国の経済学」と信じる「藤井・三橋・中野」という「妄想三人衆」やその賛同者には、「カレンシー」は印刷物などではなく「負債の実態である」としか見えないと思います。
 紙に印刷を施した印刷物が負債の実態なら、燃やしてしまえば負債は消滅します。
 つまり、火をつけて燃やせば無くなるものが負債なのですか? ということです。
 
 一方、MMTという妄想を語る連中は、「マネー」という言葉をしばしば使います。彼らは(MMTという妄想を語る連中)はマネーとカレンシーの差を厳密に説明したことはありません。
 おそらく、カレンシーとマネーの差を説明するのに持ち出す文言は、三橋氏が盛んに用いる「貨幣とは、特定のモノではなく、債務と債権の記録。すなわち、貸借関係である。」というものだろうと思います。
 世に、日本銀行が発行する「日本銀行券」という「券」が現実に存在するにもかかわらず、「日本銀行券」という単語は、三橋氏の文言にはありません。
 妄想が頭の中に充満すると、「日本銀行券」という現実に存在する「券」は無いものになり、「貨幣」で満たされるのです。
 少なくとも「貨幣とは、特定のモノではなく、債務と債権の記録。すなわち、貸借関係である。」という文言は「日本銀行券」を説明したものとは言えません。
 
 一般的に、「マネー」は「金銭の貸借関係」とされることが多いと思います。つまり「金銭の貸し借り」を行えば「マネー」が出来ます。
 さらに「金銭貸借」の「金銭」は、普通の場合「金銭=通貨(カレンシー)」を意味しますので、「通貨」が無いなら「金銭貸借=マネー」は生成されません。そのことの論理的帰結は、カレンシーが無いならマネーは作りようがないです。逆に言えば有限のカレンシーを繰り返して「又貸し」すれば、無限のマネーが作れるのです。
 
 で、マネーを無限に創って意味があるのですか?、つまり、金の貸し借りを無限に繰り返して意味があるのですか? 言い方を変えると、有限のカレンシーから無限のマネーを作って何が解決できるのですか? 
 
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 戻りますと、「貨幣」という空想の産物のもとに、全ての経済上のソリューションが「貨幣」に存在するが如き説明は、基本的に成り立たないのであって、経済は「労働」の上にしか成り立たないのです。
 
 コロナによって働く場が失われ、働く環境条件が悪化していることが問題なのです。そのことを「貨幣」を持ち出すことで解決することはできません。
 不幸にしてコロナウィルスに侵された人の内、重症化を避けられた多くの人は人生の2週間を失うだけです。そのことをケアすることさえできれば経済に大きなダメージは無いでしょう。
 
 要は、「感染防護策」と「働く環境の維持」の関係(つまり両立)をどう調整するかという、ある種の技術論に集約できると思います。
 自粛などという消極策でなく、もっと積極的な策を講じるべきと思います。
 

 本日(7/10)の三橋氏のブログに下記のような文言がありました。
 
 『正しい経済政策のあり方は、長期の財政「拡大」計画を組み、企業の投資を誘引しつつ、インフレ率を見ながら機能的に財政を調整していく、になります。要するに、国土計画があった時代の日本です。』
 
 振り返れば「高度成長期」という時代が日本にあったことは事実です。しかし、その時代に『長期の財政「拡大」計画』が存在したかどうかは定かではありません。
 「高度成長期」には数度にわたって大幅な減税が行われました。減税は国家の収入を抑え込む政策ですので、明確に「財政縮小」が行われたのです。ただ、当時は経済の拡大が非常に大きかったので、減税を行っても絶対額としての財政規模は拡大していました。
 
 しかも、経済政策としてうたわれ行われたのは「国土計画」ではなく「所得倍増」です。当時の庶民の認識は「所得」とは自身の収入だったので、庶民は単純に自分の収入が倍になるという計画だと思いこんだのですが、「総所得」の倍増であり、特に投資の拡大を大きく見込んでいたため、庶民の所得(つまりは消費)は倍増に届いたわけではありません。数値的に言えば7割増程度だったと思います。
 
 その上、当時の経済の調整法は「財政の調整」などではありません。徹頭徹尾、「日銀の貸出金利の調整」でした。
 MMT信者の三橋氏には、「貸付で預金通貨が創造できる」などという妄想があり、当時の民間銀行の貸付が日銀よりの借入金を「又貸し」していたという実態について無知ですので、『要するに、国土計画があった時代』という表現で、「財政の調整」という行われてもいないことを行われたかのように虚偽の記述をしています。
 しかし、当時の民間銀行は日銀よりの借入金を「又貸し」していたので、「日銀の貸出金利の調整」つまり公定歩合の操作に敏感に反応し、公定歩合が上がれば直ちに貸し出しを抑制したのです。その結果、投資は減少し経済の拡大幅が縮まったのです。
 すなわち、『機能的に財政を調整していく』などということは全く行われていません。昨今の「駆け出し経済学」が「機能的財政」論などという噴飯物の物語を語りますので、「機能的」などという流行り言葉を三橋氏が使っただけです。
 
 なお、申し添えておきますが「インフレ率を見ながら」などということで「日銀の貸出金利の調整」を行ったのではありません。
 当時は、貿易収支は赤字であり、日銀は外国銀行より貿易決済用の外貨の借り入れを行っていました。経済が拡大するときは貿易赤字も拡大したのであり、その結果外貨不足になりました。しかし、外貨を借りるにしても限度がありますので、「日銀の貸出金利の引き上げ」により国内景気を悪化させて、輸入を削減させるということをやったのです。
 当時の感覚では、インフレ率は景気と比例する物で、景気が良くなればインフレも進むといった認識であり、「インフレ率を見ながら」などということは一切ありませんでした。
 
 以上説明したように、冒頭紹介した三橋氏の文言は彼の妄想の産物であり、「お花畑物語」です。三橋氏の文は、それを売るための売文であり、事実の解説でもなければ、学術の記述でもありません。
 彼の書いたことを信じるのも自由ですが、疑ってかかったほうが身のためになると私は思います。
 

 MMTという与太話は、実は与太話で済まない要素を持っています。それはMMTの主張をその通りに実施すれば、不正経理になるからです。
 
 三橋氏のブログエントリー「MMTポリティクス」に下記の文言が記載されています。
 「銀行は、顧客の借用証書と引き換えに、自らの負債となる銀行預金という貨幣を発行している」
 この文言は、MMTの主張の根幹をなすものなのですが、銀行が貸し出すことの出来る「通貨(カレンシー)」を持っていない場合は、明確に不正経理であり、犯罪行為です。
 もちろん、銀行が通貨(カレンシー)を他行(日銀を含め)への預金(当座・普通など拘束性でないものに限る)という形で持っていても、『貸し出すことの出来る「通貨(カレンシー)」を持っている』ことになります。
 
 顧客の差し出す「借用書」には「通貨を借りる」と記載されており「預金を借りる」とは記載されていません。預金を渡したから契約完了ではないのです。
 もちろん通貨(カレンシー)を顧客に引き渡すために、預金口座を通貨引き渡しのチャンネルとして利用することはあることです。
 つまり、顧客が貸金を預金で受け取っても、顧客がそれを通貨(カレンシー)に換えることを銀行は拒否できないのであり、もし拒否すれば債務不履行です。初めから引き渡し可能な通貨を持たないのに、預金通帳に預かったと書いたのなら、それは借用書の取り込み詐欺です。
 「借用書」は返済期限が来れば、通貨と交換されますので、有価証券です。初めから引き渡し可能な通貨を持たないのに、MMTの主張通りのことを行えば、やった者は間違いなく「有価証券取り込み詐欺でブタ箱行き」になります。
 
 次に、銀行預金は通貨(カレンシー)ではありません。銀行預金とは預金者の保有する通貨(カレンシー)を銀行に預けることで、しかも預かった銀行は預かったことを証明するため、通帳に預かったと記載するだけです。つまり銀行預金は預けたことの証明書なのです。
 何故銀行は預金を募集するかです。それは集めた預金を貸すことが銀行の利益の源泉だからです。しかも銀行は集めた預金は負債として評価します。つまり「借りた物」なのです。縮めて言うと『「貸すために借りる」ことが銀行の業務』なのです。
 換言すると、銀行にとって預金は「借入金(負債)」です。だから預金者にとっては「貸付金(資産)」です。ですので、銀行預金の本質は「貸出債権保有の証明書」です。
 
 金銭貸借において預金口座を利用する場合、一時的に「顧客が銀行よりの借入金を銀行への貸付金とする」という形が形成されます。金融機関は「貸すために借りる」ということが業務そのものなのですが、一般顧客は貸すために借りることはしません。使うために借りるのであり、あくまでも預金口座は通貨引き渡しのためのチャンネルです。
 この一時的に形成される状態をMMTでは貨幣発行と称しているようですが、妄想の最たるものであって、論評にも値しないものです。
 金銭貸借において、銀行には貸すべき通貨(カレンシー)が存在しますので、新たに創られるものは何一つありません。銀行に貸すべき通貨(カレンシー)が存在しない場合、預金記載をすれば犯罪であります。そのことは繰り返し述べました。
 
 因みに、預金において銀行は預かった通貨をそのままの形で保有することはありません。預金通帳にも預かった通貨をそのままの形で保持するとは記載されていませんし、銀行が預かった通貨をどう処理するかについても記載されていません。従って銀行の都合で処理されます。
 一般的に銀行は預かった預金を何らかの形で「貸出債権」に変えて持ちます。借りた金を貸すという行為をするのです。つまり「又貸し」を行います。
 なぜなら「貸出債権」は利子を生むからです。得た貸出債権の利子から預金の利子を支払うのです。貸出債権の利子と預金の利子の差分が銀行の利益となるものです。
 つまり「又貸し」するしか銀行は利を得ることが出来ないのです。
 
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 三橋氏は『単なる現代の貨幣の説明です。』というMMT論者が好んで使うフレーズを使って、冒頭紹介した 「銀行は、顧客の借用証書と引き換えに、自らの負債となる銀行預金という貨幣を発行している」と述べました。
 また、「貨幣とは、特定のモノではなく、債務と債権の記録。すなわち、貸借関係である。」とも述べています。
 
 しかし、この言も味噌と糞を一緒にした極めて悪質な表現です。「記録」と「関係」は全く別物です。
 そのことを以前にアップしていますのでお読みください。
 

 

 

 そのエッセンスを言うと、「貸借関係」は返済を以て消滅させない限り、そこの存在し続ける。しかし「記録」は人手に渡って転々と居場所を変える。挙動が全く異なり、「すなわち」という接続詞で結ぶことは出来ない。
 
 また、金銭貸借は利子利息を抜きに語ることはできません。つまりMMTのいう「貨幣」は、それを維持するために日々費用が必要で、しかも金利水準の変化で色々変わるのです。通貨(カレンシー)なら維持に日々の費用は不要です。
 このことも議論すべきですが、何故だか誰も取り上げていません。こうした必要と思われることに頬っかむりするのもMMTという与太話の特徴です。
 
 味噌と糞を一緒にしても何ら差し支えない、と考えているならMMTを信じても仕方のないことですが、常識を備えたいと思っているなら、MMT論者の言は「妄想の塊り」と思う方がよいでしょう。