「主権通貨」という言葉:『日本版貨幣論の基礎』補遺 | 気力・体力・原子力 そして 政治経済

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 (旧有閑爺いのブログ)

 「主権通貨」という言葉は「MMTという屁のつく理屈」を語る連中が使う言葉です。
 
 なぜMMTが屁理屈かというと、「銀行貨幣=預金通貨」という妄想もさることながら、「金融資産は所得に変えることが出来る、その逆である所得は金融資産に変えることが出来る」ということを認めていないからです。もちろん他の経済学もこのことは認めていません。
 このことを認めるとケインズが立てた「一般理論」を全て否定することになり、「経済学全体」の存立さえ危ういものになるからです。
 
 ですが、煎じ詰めれば使った金の合計がGDPであるわけです。お金は使うということは、生産に伴ってある人から他の人へお金が手渡されることです。すなわち、お金はそこに存在する限りストック(つまり金融資産)ですが、お金を動かすからGDP(つまり所得)が生まれるわけです。金融資産は動かすことで所得に変えることが出来るのです。
 また、例えば生産者が得たお金(つまり所得)は得た瞬間からストック(金融資産)であり、それを動かさずに留め置けば、その後所得を生むことはありません。所得として得たお金を留め置き、動かさなければ金融資産に変わるのです。
 
 不思議なことに上述のことを経済学は認めていないのです。そのことを指摘するとおよそ反論とは思えない珍論のオンパレードとなり、もはやカオスのごときあり様になります。
 なぜそうなるかというと、経済学など「井の中の蛙」で、大海(この場合は科学全般を論じる場)に放り出されるとあらぬことを絶叫し、挙句の果ては「〇〇は××だ」という「決めつけ」をして、「だからロジックなのだ」と「天才バカボン」のような説明をするからです。
 科学を論じる場では、皆が証明が出来ていると認めた「学説」以外の「学説」は仮説にすぎないという共通認識があります。
 経済学における「学説」で証明された「説」は何一つないのですが、「MMTという屁理屈」を語る連中は、自身が語っていることは全て仮説なのだという認識はありません。
 語っている本人たちは「真理だ」と信じているだけで、そばからそれを見れば単なるカルトです。
 だから語っている内容は、カルト特有のある種の信仰告白であり、「身も心も捧げます」的な表現で溢れています。
 
 因みにアインシュタインの立てた「相対性理論」が成り立つことは原爆が証明しました。また、アインシュタインは「重力波」は存在するとする説を立てました。しかしながら、その存在が確認されつつありますが、「重力波説」は依然として仮説であり、そう扱われています。
 
 一方、「MMTという屁理屈」を語る連中に、冷静に「預金とは預けたものですよね」と確認すると、失語症を発症し全員だんまりを決め込みます。
 同じように「仮説ですよね」と念を押すと、「学説を信仰することは出来ても証明することなどできません」とばかりに、蜘蛛の子を散らすように皆が逃げ隠れしてしまいます。
 だから、MMTなど屁理屈であり、「主権通貨」という言葉は屁理屈のための言葉です。今回の話はそのことを前提とします。
 
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 で、「主権通貨」ですが、一般的には、ある独立国があるとして、その国の独自通貨を指す言葉です。例えば「日本の円」は「主権通貨」です。

 そして、リブログした記事のジータさんのコメントで、下記のような文言がありました。

 『現代貨幣理論ですから、対象は通貨のはずなんです。国家ではなく。
  円、米ドル、ユーロ、ウォン、元、ポンド、フラン。
  これらを説明しようとすると、統合政府論が通用する通貨と、しない通貨に分類されます。
  ・・・となると、統合政府論が通用しない通貨には
  ① 通貨を統合し、主権通貨の名で国家を統合する
  ② 通貨を分解し、主権通貨ごとに国家を独立する』
 

 

 MMTは『世の中で一番大切なものは「貨幣」である。』と信じている連中の言説ですので、主語はいつの場合も「貨幣」です。「貨幣」を主語に「国家」を語れば上述の文になるわけです。
 一般の普通の人なら、上記の①②は「そういう言い方もできるかもしれないが、何か違うよね」と思うはずです。
 
 なので、そのコメントに対して私は
 「ユーロという通貨がこの先どういう運命をたどるかが見ものでしょう。」
 「多くの人が「通貨はツールである」という認識に到達するまではまだ時間がかかるでしょう。」
 という、考えを伝えました。
 
 実は私は「通貨はツール」であると考えており、それそのものに「価値」があるとは考えていません。つまり有用なのは機能だということです。ツールつまり道具は他に代替可能な物が表れれば取り替えれば済む話です。
 そのことをジータさんは
 「通貨の本質とは、『 取引の利便性を追求し続けるモノ、また、その結果 』・・・といった定義が相応しいと、私は考えています。」
 と表現されています。
 
 単にツールにしか過ぎないものを、MMT論者・信者は『世の中で一番大切なものは「貨幣」である』と考えているわけで、まさに彼らは「貨幣の奴隷」つまり守銭奴そのものです。
 
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 ということで、「利便性」という観点から通貨を論じてみたいと思い以下にそれを述べます。また、私は以前に「日本版貨幣論の基礎」を5回に分けて発表しましたが、その補遺としての記述でもあります。
 
 江戸時代は通貨が圧倒的に不足していた時代です。(このことは「日本版貨幣論の基礎」の第2回【日本版貨幣論の基礎(その2)】と第4回【日本版貨幣論の基礎(その4)】で詳述しておりますので、よろしければお読みください。)
 そのために、商取引に通貨(江戸時代は3貨<金貨・銀貨・銅貨>)を実質的に使用できない状態が続いたのです。
 取引は基本的には通貨を以て支払うという約束が成立すれば完了します。このことは普通は決済と呼ばれ、決済が完了した時点で通貨を引き渡していないのなら、取引は貸借関係に移行するのです。江戸時代はこの貸借関係を繰り延べる形で通貨を用いずに、「物・サービス」の引き渡しと「物・サービス」の受け取りを行っていたのです。
 もちろん庶民レベルでは、銅貨を以てその場で支払いが行われる場合も多くありましたが、「付け」と称して貸借関係を作る場合もありました。
 
 「利便性」は通貨以外の方法つまり支払うという約束で実現されていたのです。その代表例が「銀目手形」です。その他にも「藩札」や「山田羽書」に代表される「私刷の紙幣」あるいは「米切手」に代表される商品券とか「倉荷証券」(平たく言えば蔵の荷物の預かり証)のようなものまで使われました。
 
 何故そうなったかというと、当時の貨幣は武家が自分の家計の支払いに充てるために作った物であったからです。今風に言うと「政府紙幣を作り、それを政府支出に充てた分」しか紙幣が無かったということです。作られた紙幣(あるいは貨幣)が、日本経済を支えるに足りる量でないことは明らかです。
 
 このことから言えることは、通貨というものがあろうとなかろうと、通貨の単位が確立しておれば代替の手段はあるということです。代替の手段が便利なら「利便性」はあるわけで、その意味からは通貨を使わねばならない理由はありません。
 なので江戸時代は多様な決済手段が用いられ、決済(つまり貸借関係の構築)のみで取引が行われたのです。貸借関係は期限ごとに計算され改めて繰り越しを行い、「銀目手形」などでは現金は一切使用されませんでした。
 
 なお、現在は「いわゆる政府紙幣(江戸時代の3貨、太政官札、明治通宝、改造紙幣等)」に換えて「日本銀行券」が発行されるようになり、通貨不足は解消しました。これは発行の仕組みが政府の費用支払いから、金融機関(あるいは政府)の貸し出し要請にこたえる形に換わったからです。金融機関(あるいは政府)が貸して欲しいと願い出れば、日本銀行が作って貸し出すということになったからです。
 日本銀行券があまねく日本で使われるようになったのは、古い昔のことはではなく日露戦争当時でした。
 もちろん野放図な貸し出しは行われず、それなりの管理はなされていました。そのことを破ったのが軍部で、戦費の調達を日銀からの借入で行ったのです。天文学的金額の貸出しが行われ、戦後に「悪性インフレ」が起き、国民は塗炭の苦しみを受けたのです。
 
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 MMTという「屁のつく理屈」は上記の「取引における決済」と「通貨による支払い」を明確に区分することが出来ていません。と言うか、私はそのことを混同することで、MMT論者が一般人を騙そうとしているのだと疑っています。
 
 私は前回のエントリー【MMTはどんなペテンを使うか!】で引用したMMTの要点を述べた文
 【カネ(貨幣)とは、紙幣や硬貨といった物理的な形を取ることもあるが、本来は貸し借りを記録した数字にすぎない。「キャッシュレス」なる表現が示すとおり、「キャッシュ」(物理的な形を取った貨幣、つまり現金)と「マネー」は違うのだ。】
 に現れる「マネー」と「キャッシュ」の差は、「取引における決済」と「通貨による支払い」の差と意味的には全く同じであります。ですのでMMT論者は「決済」と「支払い」の区分は出来るはずです。
 
 だから私は『「マネー」は記録であるという主張』という表現を前回使ったのであって、その主張そのものは不当なものでないと考えます。と言うか「定義である」と言いたいなら、そのことに反対はありません。
 
 決済で通貨が使用されないなら、そのことは通貨の貸借関係の生成(普通そのことは記録されます)を意味しますので、MMT流に言うなら「マネー」が生まれるわけです。
 一方、金銭貸借とは現金そのものの貸し借りのことであって、それを行えばそれも通貨の貸借関係の生成であり、「マネー」は生まれます。
 但し、「物・サービス」を引き渡して出来る「マネー」と「現金」を引き渡して出来る「マネー」では大きな差があるのですが、会計処理上は同じ扱い(貸借対照表上で、貸した側は資産と評価し、借りた側は負債と評価)をします。
 
 今も、通貨を使用せず決済を行うことがままあります。約束手形という手形を使う取引です。これは高度成長期にはほぼ全ての企業が使っていました。約束手形は文面的には「金〇〇〇円也を*か月後現金でお支払いします。」というものです。意味的には借用書であり、まさに「マネー」です。「マネー」を作ることは銀行の専業ではありません。誰でも作れます。MMTはそのことも曖昧にしています。
 MMT流に言えば江戸時代は商売をする人が全て個人的に「マネー」を作っていたのです。実はクレジットカードによる決済も引き落としが行われるまでは「マネー」が出来ているのです。
 
 で、MMTとは「マネー」の理論であって「キャッシュ」の理論でないとすると、「貸借関係は記録します」という事務処理の話しか残りません。
 そのうえ、「貸した」「借りた」あるいは「預けた」「預かった」または「支払った」「受け取った」という行動があるから、記録が出来るのであって、行動もないのに記録を作れば明らかに不法行為・犯罪です。
 【キーストロークでカネを生み出せる】と言っているのですが、どんな行動をしたかが「キーストローク」で記録すべきことであって、その行動の記述を省略したのでは「ペテン」にかけるための文言です。
 MMTはペテンと犯罪で満ち溢れています。注意しましょう。
 
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 ここまでくると「主権通貨」という言葉が、実に下らない言葉であるかが分るでしょう。
 本文に述べたことを繰り返します。
 
 このことから言えることは、通貨というものがあろうとなかろうと、通貨の単位が確立しておれば代替の手段はあるということです。代替の手段が便利なら「利便性」はあるわけで、その意味からは通貨を使わねばならない理由はありません。
 
 通貨など便利に使えるなら、便利に使えばよいだけです。大の大人が「主権通貨」などという言葉を使って議論するようなものではありません。ただの道具なのですから。