MMTは新自由主義経済学の権化である。 | 気力・体力・原子力 そして 政治経済

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 (旧有閑爺いのブログ)


 権化という言葉は、英語のインカーネーション(incarnation)にほぼ等しい言葉です。
 「インカーネーション」は「言葉が化して肉体となる」といった意味合いを持つキリスト教の考えを表した言葉であり、一方の「権化」は「呪文を唱えたら姿を現した」ともいえる言葉なので、両者当たらずといえども遠からずの関係だろうと思います。

 ですので表題の「MMTは新自由主義経済学の権化である。」は、「新自由主義経済学の呪文を唱えたらMMTが生まれた」ということを示しているのです。
 そうです。MMTは新自由主義経済学の王道を歩むネオリベの本命の「理論」なのです。言い方を変えるとMMTは新自由主義経済学の「進化形」(私から見れば「劣化形」ですが)です。
 何故そう言えるかが、今回の主題です。

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 新自由主義経済学は、古典派(自由主義)経済学者とマネタリストとがつるんででっち上げた、私からすれば大変下劣な経済学です。
 彼らの唱える説で最も大切にされるものは「貨幣(通貨)」であり、すべてはこの「貨幣」をもとにして語られます。
 新自由主義経済学の根源にある考え方は、「貨幣には価値がある」だから「貨幣を供給すれば、価値を供給することなのだから、経済を動かすことが出来る」です。
 例えば、「金融緩和」という政策はこの考えの延長線上にあるものです。

 私は、MMTは新自由主義経済学の「進化形」である、と申しましたが、それでは何を進化させたのでしょうか。当然、MMTは新自由主義経済学が最も大切とする「貨幣」を進化させました。
 MMTの主張する「貨幣」は、今までより「進化した(見方によれば劣化した)貨幣」であり、それは具体的には「預金通貨つまり銀行貨幣」というものです。

 MMTは、新自由主義経済学の基本的な考えである「貨幣には価値がある」だから「貨幣を供給すれば、価値を供給することなのだから、経済を動かすことが出来る」という考えを、当然ことながら引き継いでいます。しかし引き継いだそのことに、少しだけ姑息な味付けをしたのです。
 どんな味付けをしたかというと、経済を動かす貨幣は「銀行貨幣」であるという味付けをしたのです。
 しかも、「銀行貨幣」は融資に際して「預金額」を「万年筆」で書くことにより「創造」出来て供給できるというストーリー【彼らは理論といっていますが物語です】を付けたのです。
 つまり「金貸しが万年筆を使うことで経済を動かせる」という主張をしているのです。

 ですが、もっと根本的なことを言うと、経済を安定して拡大させる解を示すことが経済学に求められていることです。経済の拡大とはつまるところGDPを拡大させることです。GDPはフローでありますので、着目すべきはフローです。
 ところが新自由主義経済学は「貨幣」というものに着目し、それを論じてきたわけですし、MMTも「預金通貨」というものに着目して経済を論じています。その着目点である「貨幣」はそこにある限りストックですし、「預金」もストックです。
 しかしながら、生産要求と支払いの約束とを生産者が受け入れれば、生産は行われます。このことは、ストックなどあろうとなかろうと、あったとしてもその多寡とは無関係に、フローは作り出すことが出来るということを意味しているのです。
 つまり「ストック」を論じても経済拡大の解は得られないのであり、従来の新自由主義経済学もMMTも「役立たず経済学」であります。

 MMTは結局のところその本質は、「貨幣」で経済を語り、「ストック」で経済を語る新自由主義経済学です。しかも本来の新自由主義経済学の考え方の王道・本流に乗った考えをもっており、新自由主義経済学の進化形(変化形か劣化形かもしれません)と断じてよいでしょう。

 ただ、MMTは「銀行貨幣」を修飾するために各種のカモフラージュともいえる駄論、特に税だとか政府発行の通貨だとか政府支出がらみの尾ひれを付け加えて、それを「目くらまし」にしていますので注意が必要です。

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 上述のようにMMTは新自由主義経済学の根本的な特徴を全て備えており、それに輪をかけた論ですので、従来の新自由主義経済学の生まれ変わり、つまり権化であるわけです。

 日蓮は「真言亡国」「念仏無間」などと旧来の仏教を非難し、我こそ真の仏法を説くものとの主張をしました。
 MMTが従来の新自由主義経済学を非難し、対立するものであると主張しているようですが、このことは日蓮の例のごとく、同じ宗教内での対立とみてよいでしょう。何せ『「貨幣」で経済を語り、「ストック」で経済を語る』という本質は同じですので。

 ところが、この「新自由主義経済学との対立」ということに耳目を奪われ、「MMTこそ救国の経済学」だと信じ切り、そのことを広く流布しようとする「3人衆」が現れました。「三橋、中野、藤井」の御3人です。
 市中銀行の貸付が「又貸し」であることは、銀行の業務遂行とそれを支える職業倫理の観点から、実行されている事実を観察する能力があればわかることです。預金などは千円札が1枚あれば、1億が1兆円でもたちどころに作ることが出来ます。これは銀行が「又貸し」ということを行うからであり、そのことさえ理解できれば「預金通貨」などと言うことは「妄想」である、とわかるはずです。
 しかし「3人衆」はそのことに気が付いていないようです。
 

 「3人衆」が信じ切ったことを流布している現状から、その心酔者が「MMTを一押し」とすることはやむを得ないことかもしれません。
 ブログ「進撃の庶民」のメンバーにも「3人衆」の心酔者がおられますし、その方たちは当然「MMTを一押し」としていますので、あたかも「MMT礼賛」ブログつまり反ネオリベを標榜しているが「ネオリベ礼賛」ブログの様相を呈しています。
 非常に残念ではありますが、致し方のないことなのでしょう。

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 経済学の使命は「経済成長の解を示すこと」です。
 もう一度繰り返します。「貨幣」や「貨幣の貸借」広くは「ストック」をいくら論じても経済成長の解を示すことはできません。
 フローを論じることこそ大切なことです。そのことを最もよく知っていた高橋是清であり、彼の事績を反芻して、それこそ「救国の経済施策」を論じるべきでしょう。
 因みに冒頭に掲げた写真は、高橋是清の肖像画を使った50円紙幣で昭和20年代の後半ごろに使用されていました。書籍を整理していたら出て来たのでスキャナーでコピーしたものです。