年の瀬 | 気力・体力・原子力 そして 政治経済

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 (旧有閑爺いのブログ)

 「瀬」という言葉は「淵」「岸」「沖」と言った言葉とともに、水のあり様を示す非常に古い大和言葉です。
 「瀬」は「流れのある水」「水の流れ」を表す言葉であり、「年の瀬」は年月時間の経ることを流れに見立てて、「時間の流れ」を意味するのですが、年末に対してこの言葉を用いるには本当は「押し詰まった」といった言葉とセットであるべきなのですが、年末以外のほかの時に「年の瀬」という言葉を使わなくなったため、年末を指す言葉となっています。
 「瀬」に対応する言葉が「淵」で、水がよどんでいるところを表します。
 鮎は初夏には「瀬」に居ついて縄張りをつくり「若鮎」として生きていますが、秋が訪れると色も黄ばんできて「落ち鮎」として「淵」に居つきやがて死んでゆきます。
 
 前置きが長くなりましたが、「淵」についての有名な話を紹介して、本年の締めとしたいと思います。
 
 昭和の初めごろ、大恐慌のなかで「日本の内部矛盾」が大きくなったころ「青年日本の歌」という歌が一部の人に歌われました。今この歌は「昭和維新の歌」と呼ばれ、右翼が街宣車で盛んに流しています。
 なお、歌は YouTube で「青年日本の歌」または「昭和維新の歌」を検索すれば聞くことが出来ます。
 その歌詞の1番と2番について若干の解説をしたいと思います。
 
①「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く」
 
②「権門上に驕れども
国を憂ふる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思ふ心なし」
 
 上記の歌詞は予備知識がないと難解と感じるでしょう。
 まず、「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ」ですが、中国の河南に汨羅江という河があります。河ですので、瀬も淵もあるのですが、淵は水のよどんだところですので水面は波など無いのです。しかし、淵に波が騒いでいるのですから何か事件があったことを表しています。
 言い伝えによりますと、楚(古代中国戦国時代の国の一つ)の屈原が、楚の亡国を知り汨羅江に身を投じて命を絶ったとされています。つまり「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ」とは憂国の志士ともいえる屈原の投身自殺をあらわしており、亡国の悲劇が近いということを意味しています。

 さらに「巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ」ですが、巫山は中国重慶近くの山なのですが、「巫山のことをする」という言い回しがあり、男女の情交や場合により男色を意味します。それが「乱れ飛んでいる」のですから性道徳が乱れていると言っているのであり、昭和の初めごろの世相エロ・グロ・ナンセンスといわれた時代を示しています。

 そして、権力を持つもの上に立つものは驕り高ぶっているが国に忠誠を尽くしているわけでもなく、財閥は富を愛することに全てをつぎ込み社稷(中国の国家的祭祀、転じて国家)を思う気持ちなど無い。つまり権力なき者貧しき者しか憂国の心を持っていないと言っているのです。
 
 この歌が、2・26事件のある種の心情的背景になり、やがて軍部が国を左右することにつながったわけですので、「日本の内部矛盾」をいかに解決するかの選択を誤らせたかもしれない歌でもあったのです。
 この当時、「日本の内部矛盾」を解決すべく「憂国の思い」が、「亡国の危機」「性道徳の乱れ」「権力の腐敗」「富の偏在」と言ったことに的がむかったのですが、如何せん軍人にそうしたことを合理的に解決する能力はなかったのであり、いまにして思えば残念なことであります。
 
 日本の内部矛盾は、権力の在り方と財の偏在(あるいは所得格差)にあったと私は思っているのですが、それが「軍部への権力集中」と「統制経済」と言われる軍需優先の経済体制構築に向かったことが、真の亡国につながったことは皮肉と言えば皮肉なことです。
 
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 翻って現状を顧みれば、昭和初期と似ている場面も多くあります。
 
 例えば、「亡国の危機」でありますが、特亜3国は日本を敵視することを益々強化しており、中国に至っては我が国の領土を公然と脅かしています。北鮮は核兵器を我が国に向けていますし、南鮮は約束事など守る気配など一切なく、これら3国への対応を誤れば直ちに待ち受けるは我が国の亡国であります。
 前世紀半ばに亡国の悲哀を味わいながら、それを正確に伝えようとしない為政者が連綿と続いていますので、本当に危険であります。
 
 「性道徳の乱れ」は時折新聞紙上に記事が挙げられていますが、梅毒の劇的な増加が現在の日本にみられており、明らかに危機と言えるものです。
 
 「権力の腐敗」は「モリカケ」に明確に表れており、そのことへの反省は一切なく、ますます今後も進むものと考えられます。権力は必ず腐敗しますので、追及は都度強めていく必要があります。
 
 「富の偏在」はネオリベと呼ばれる人々のとる経済政策が目指すものであり、現状の政策が続く限り、富者はますます富み、貧者はますます貧しくなることは避けようがありません。
 
 このように、昭和初期同様に内部矛盾から崩壊に至るやもしれない状況に現在ある、と私は思っているのですが、残念ながら「権力の在り方と財の偏在」を合理的に解決することへのコンセンサス形成さえ、ままならない状況かと思っています。
 
 このように希望の薄い状況下ではありますが、来年も思いつくままに、問題解決への道筋について述べていこうと思っています。