2025.05.02@Nairobi🇰🇪
夜8時以降出歩かなければナイロビは安全な街だ、と人は言う。
一方、昨日市内中心部で発生した国会議員の暗殺事件の犯行時刻は19:30だった。
しかし、30分の誤差を許容できない人間はアフリカでは生きていけない。
文字通り、生きてはいけないのだ。
そんなこともあって僕は19時半にはホストファミリー宅へ帰るようにしていた。
しかし、今夜は旅人の野次馬精神がそれを許さなかった。
何やら大勢の、数百人のナイロビ市民が広場に集結して大声で合唱している。
楽器隊が奏でるソウルフルかつ荘厳なその旋律にのせて、人々が歌うのは、聞けば礼拝音楽、いわゆるゴスペルというやつだった。
僕は数年前、ゴスペルというジャンルに傾倒しようと努力したことがある。
たまたまどこかで耳にしたゴスペルシンガーの楽曲に(たしかカーク・フランクリンという名だった)一聴惚れし、”ゴスペル好き”の男性は”HIPHOP好き”や”ロック好き”よりも、よほど熟成された渋みを演出できるのではないか、と思い立ったからだ。
(”こんな音楽を聴いている俺ってば、マジでカッコいいゼ”と思わせるのは音楽の一つの魅力であり、正しい嗜み方だと僕は思っている。)
ただ、そんな不純な動機で音楽を好きになろうとしたところで長続きしないのは当然の帰結と言えた。
なんせ僕はORANGE RANGEを神として崇める性質の人間なのだ。(そんな俗っぽい嗜好を公にはしないのは言うまでもないが)
しかし、ナイロビで初めて生のゴスペルというやつを味わった僕は、もはや不純な動機を必要としなかった。
ゴスペルという音楽は、神への賛美、聴衆への励ましや癒し、地域のクリスチャンコミュニティの一体感の醸成という非常に強い目的意識を持つ。
イヤホンから垂れ流されるデジタル化された音源でゴスペルの魅力を語るというのはハナから見当違いだったのだ。
地元民に導かれ、輪の中心に導かれた僕は、ナイロビの空に響き渡る人々の祈りを湛えた合唱に包まれ、いつの間にか静かに涙を流していた。
(周りの多くの人々も泣いていた。)
19時半ルールも忘れて、1時間半ほどその場に滞在した僕は、そろそろ行かねばと涙を拭ってその場を後にする。
今度こそ真のゴスペル好きの渋い漢になる、という強い目的意識を持って僕は、Apple Musicのゴスペル・ベストと名付けられたプレイリストを再生しながら暗い家路を辿るのだった。

