13 わが心ながら、わが心にもまかせぬ物 2

 

① 物のあはれ=「共通理解が成立しない約30%の領域」?

 

 下半身を愛撫する女性が直面したのもの。それはもちろん、「わが心ながら、わが心にもまかせぬ物」である。彼女は、「世界>私」、「世界=理」と考える人だった。幸せな生活を送り、世界は整合的で理解可能なはずだった。そんな彼女に、「下半身だけの女性」がたずねてきた。夢の中で。彼女は、レズビアンだったのか?レズビアンになったのか?この質問に、私は答えたくない。精神科医なら、『理』を使って首尾一貫した説明をするだろうけれど。

 私たちは誰だって、”社会と上手くやっている”ときは、『理』を信頼している。仕事は、『理』を尽くして働くことだし、人間関係も、『理』を大事にして構築している。ところが、突然”同性の下半身”に夢中になったら、日常の『理』なんて吹っ飛んでしまう。こんなとき、私たちは次のように対処する。『理』をバージョンアップして、世界を整合的に戻そうとするのだ。

 例えば、私がこの②の女性と結婚していたとしよう。そして彼女が、事情を告白してくれたとしよう。

 

「私は最近になって、女性に性的欲望を抱くようになった」

 

 私の世界は、彼女の告白によってガラガラと崩壊するだろう。私は彼女の変心が理解できない。理解できないけれど、彼女の心は動かない。彼女は最近、女性が好きになった。すると私はどうするか?私は、自分の『理』をバージョンアップして、彼女を自分の整合的な世界に取り戻そうとする。彼女の変心を、”整合的な結果”と捉えようとするのだ。

 “この人”を取り戻したい。この願いは、相手が配偶者でも恋人でも家族でも親友でも同じだろう。相手が自分にとって大事な人ならば、私は相手の心を理解しようとして、合理的な、客観的な、論理的な答えを探し回る。答えは、科学的でも宗教的でも構わない。

 

 本居宣長の考えは違う。彼は、『理』を使わない。出来事を、ありのままに受け止めようとする。これが「物のあはれ」なのだ。その心を知ることなのだ。彼がそう考えられたのは、歌と恋のおかげだろう。

 小林秀雄「本居宣長」の冒頭で、国文学者の折口信夫(1887〜1953)が「本居さんはね、やはり源氏ですよ」と語るシーンが出てくる。ところが世間では、本居宣長の最大の仕事は、35年かけて完成させた古事記の解説書「古事記伝」とされる。表の世界というか、公式な本居宣長評は、国文学者である。歌と恋の人ではない。これは、おかしくないだろうか?

 私の考えは、折口信夫と同じである。本居宣長は、源氏物語から「生涯変わらぬ直感」をつかんだ。直感からつかんだ感動を、自分の”背骨”にした。この背骨は、生涯揺らがなかった。しかし、この”背骨”は「共通理解が成立しない約30%の領域」だった。だから、「物のあはれ」としか言いようがない。それ以上説明できないのだ。しかし、もしも私が、本居宣長に近い「直感」をつかめたら。「物のあはれ」は、とても豊かに語りかけてくる。上手く説明はできないけれど、ありありと手ごたえのあるメッセージを受け取れるのだ。

 

② 禁じられた色彩(Forbidden Colours)

 

「禁じられた色彩(Forbidden Colours)」(=坂本龍一/デヴィッド・シルヴィアン)は、歌が入らない「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Lawrence)」の方が有名だろう。この曲は、坂本龍一が大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」のために作曲した。出来上がった曲に、デヴィッド・シルヴィアンが歌詞とメロディを作って乗せたそうだ。

 私は若い頃、この曲の歌詞に衝撃を受けた。この曲は1983年、映画の公開に合わせてサントラアルバムからシングルカットされた。しかし私が手に入れたのは、1990年を過ぎて発売された「禁じられた色彩(Forbidden Colours)」を含むミニアルバムである。購入した日の夜、自分の部屋で歌詞カードを読んだ。その記憶は、今でもはっきり残っている。未だに忘れないほど、私は驚いたのだ。

 そんなに驚いた理由を、説明するのは難しい。歌(=歌詞)とは、それを味わう人間と切り離せない。とても個人的な体験である。私という人格が、歌詞から“ある感触(意味)“を引き出して味わう。その感触(意味)は、他人とは少々異なるだろう。

 

 Forbidden Colours (=坂本龍一/デヴィッド・シルヴィアン)

 

 The wounds on your hands never seem to heal

 I thought all I needed was to believe

 

 あなたの両手の傷は 決して治らないだろう

 必要なのは信じることだけ 僕はそう思っていた

 

 Here am I, a lifetime away from you

 The blood of Christ, or the beat of my heart

 My love wears forbidden colours

 My life believes

 

 ここに僕はいる あなたから離れた人生

 キリストの血(※)か 僕の心のときめきか

 僕の愛は 禁じられた色彩を身にまとう

 僕の人生は 信じる(・・・を)

 

 ※ キリストの血

 キリスト教では、イエス・キリストの処刑を、神の子(イエス)が

“罪深い人間の身代わり”になってくれたと解釈する。

 そこからさらに、

 →イエスは、人間の罪を赦してくれた。

 →キリストの血は、贖罪を象徴する。

 →キリストの血は、罪を赦される安心、解放、歓喜も表す。

 

 Senseless years thunder by

 Millions are willing to give their lives for you

 Does nothing live on?

 

 無益な年月が 轟音とともに過ぎて

 何百万もの人々が 自分の命を進んであなたに捧げていく

 生き残るものはないのか?

 

 Learning to cope with feelings aroused in me

 My hands in the soil, buried inside of myself

 My love wears forbidden colours

 My life believes in you once again

 

 湧き上がる感情を 鎮める術(すべ)を学び

 土に埋めた(汚れた)両手 自分の内部に閉じこもる

 僕の愛は 禁じられた色彩を身にまとう

 僕の人生は もう一度あなたを信じる

 

 I'll go walking in circles

 While doubting the very ground beneath me

 Trying to show unquestioning faith in everything

 

 自分が立っている場所さえ信じられず あたりをぐるぐると歩き回る

 人生の“正道”をつかんだふりをしながら

 

 Here am I, a lifetime away from you

 The blood of Christ, or a change of heart

 My love wears forbidden colours

 My life believes (in you once again)

 

 僕の愛は 禁じられた色彩を身にまとう

 僕の人生は もう一度あなたを信じる

 

 最初のフレーズ、

 

「The wounds on your hands never seem to heal(あなたの両手の傷は決して治らないだろう)」

 

に、私はノックアウトされた。1ラウンド、数秒でKO負けである。私は、この一文が持つ”巨大なスケール“に圧倒され、強く惹きつけられた。「なぜ?」「どこがそんなにいいの?」と、沢山の人が疑問に思われるかもしれない。

 デヴィッド・シルヴィアンは、「Forbidden Colours」という題名を三島由紀夫の”禁色”という作品から採用したらしい。”禁色”は、男性同性愛を題材にした作品である。「戦場のメリークリスマス」も、その傾向がかなり強い映画だ。しかし映画の舞台は、第二次世界大戦の日本軍捕虜収容所である。ゆえに、デヴィッド・シルヴィアンは戦争の歌を作ったのだと思う。

 大学時代、私は本をたくさん読んだ。読み漁った末の結論は、「人間は、醜い」だった。だがそれは、ユダヤ人虐殺や魔女狩りや全体主義のような非人道的行いのせいではない。人間は「正しい」と考えて、醜いことをする。自分が正義だと信じて、残虐非道なことをするのだ。

 戦争は、多かれ少なかれ”狂信的”な行為だ。死を賭して戦うのだから、強力な後ろ盾が必要だ。言い換えれば、後ろ盾が強力でなければ戦争なんてできない。「人と殺し合う」という非日常的行為が、絶対的存在とその正しさへの信仰を生む。自分の行いの醜さや残虐さを、絶対的存在(=あなた)は許してくれるはずだ。むしろあなたが、醜く残虐なことを”受け入れてくれる”と「信じればいい(all I needed was to believe)」。

 この歌が、私の”背骨”のような気がするのだ。「あなたの両手の傷は治らない。両手の傷は、多くの人が死んだ結果だからだ。それでも私は、もう一度あなたを信じてしまうだろう」

 これが、”人間の正体”だ。この感触(解釈)が、私が物を考えるときの最初の一歩だ。