14.善悪を捨てて、女童の心をもって

 

 物のあはれとは、「共通理解が成立しない約30%の領域」である。しかし、個々人の”背骨”となるものである。このことを、本居宣長の視線から見直してみよう。

 

 本居宣長の原文をご紹介したい。源氏物語や恋について語っている文章である。

 

「・・・いずれの物語にも、男女のなからひ(※1)の事のみおほきは、集ども(※2)に恋の歌のおほきとおなじことにて、人の情の深くかかること、恋にまさることなき故也」(紫文要領より)

 

 (※1) 男女のなからひ → 男女の人間関係

 (※2) 集ども → 万葉集、古今和歌集などの和歌集

 

<意訳>「いずれの物語も男女の関係の話ばかり多いのは、万葉集、古今和歌集などの和歌集に恋の歌が多いのと同じことである。恋ほど、人の情の深さが現れるものはない」

 

「・・・歌の道は、善悪のぎろんをすてて、もののあはれと云事をしるべし、源氏物語の一部の趣向、此所を以って貫得(※3)すべし、外に子細なし(あしわけ小舟より)」

 

 (※3)貫得 = 現代の辞書には載っていない。強い意志を持って修得する、という意味か?

 

<意訳>「歌道とは、善悪などは捨てて、”物のあはれ”に尽きることを理解すべきだ。源氏物語の本意が現れた箇所を、よく読んで修得すべきだ。他にはない」

 

 本居宣長の思想の、ラディカル(過激、根源的)さがよくわかる。

 ちょっと、おじさん。無茶したらアカン!とツッコミたくなってくるほどだ。この熱さが、本居宣長の真骨頂である。やはり、源氏物語こそ彼の”背骨”なのだ。

 

 ここで引用した「あしわけ小舟」は、彼の生前に出版されていない。執筆時期も不明なのだが、おそらく若いころに自分の考えを書き留めた覚書(メモ)と思われる。注目すべきは、出版された「紫文要領」と内容が変わらないことだ。私の考えでは、本居宣長はかなり若いときに、自分の直感を『思想』として確立していたと思う。

「自分の直感」とは、人が物を学ぶ上で”自らのスタート地点”とする考え方のことである。アインシュタインならば、「手鏡を持って、光の速さで飛ぶ自分」だった。ニーチェならば、「悲劇を受け入れ、自己を肯定できるディオニュソス的人間」になる。カントならば、「形而上学の意見対立は、解決不可能」であったろう。人は大人になる過程で、”自分なりの(人生や社会に対する)直感”をつかむものだ。

 本居宣長の場合は、歌と物語だった。聖人君子だとか、悟りだとか、善悪とか道徳とか、一切どうでもいい。人間の情の深さは、恋に極まる。恋とは、生半可な善悪など関係なく、人のありのままの姿が現れるものだ。このことを、本居宣長は和歌と源氏物語からつかんだ。つかんだ直感を、生涯離さなかった。

 

 以下の文章は、さらに素晴らしい。

 

「おほかた人のまことの情といふ物は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうわべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みんな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめ(※4)計也」(紫文要領より)

 

 (※4)たがひめ = 行き違い、食い違い

 

 小林秀雄の「本居宣長」を読むと、これくらいの古文はさらりと読めるようになる。以下に、意訳を記載する。

 

<意訳>「人の本当の情とは、小さな女の子のように未練がましく愚かなものだ。男らしく賢いことは、本当の情ではない。うわべを繕っているだけだ。実の心の底(=本心)を見てみれば、どんなに優れた人も小さな女の子と変わらない。本心を、恥ずかしがって隠すか表に出すかの違いに過ぎない」

 

 ”とても優れた人だって、実は小さな女の子”説はすごい。というのは、

 

 優れた人=「理」や「道」を知る人、悟っている人、何があっても動じない人、・・・

 

というのが、私たちの常識だからだ。まさに、「世界=理」の発想である。本居宣長の考え方は、私たちの常識と真逆なのである。

 このような人間観・人生観を持っていたから、彼は源氏物語を座右の銘とできたのだろう。本居宣長は、とても優れた人の「小さな女の子の心」を大切にした。光源氏を思い浮かべれば、この考えはすんなり納得できるだろう。

 

 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」

 

 本居宣長61歳の自画像の、上に書かれたこの歌は「やまとごゝろ」が「大和魂」に変換された。ここから、彼の公式な評判は武士道や皇道へつながった。それはそれで、動かせぬ事実である。

 しかし私は、女童の情(こころ)を大切にしたい。誰もが持つ女童の情が、「共通理解が成立しない約30%の領域」を照らすのだ。未練がましく愚かで、支離滅裂で意味不明、不倫に狂う鬼畜であっても、人の本当の情とはそういうものなのだ。人の本当の情を見るとき、私たちは「物のあはれ」を知るのだ。