11 『理』(合理、科学的思考)の危険について

 

① 対抗概念の危険

 遠い昔から、日本にとって中国は世界の最先端であった。現在のアメリカと同じである。現代の日本人は、アメリカ(+ヨーロッパ)の全てを無批判に有り難がる。それとそっくり同じように、明治以前の日本人は、中国から輸入した物なら何でもかんでもベストだと考えた。

 少数派が、この思想風潮に抗った。契沖や本居宣長はもちろん、古代日本を研究する人々は、「日本だって、スゴイんだ」と素直に考えた。水戸光圀公が編纂を命じた「大日本史」は、武家政治以前の日本を後世に伝えた。やがて、国学が生まれる。中華思想全般に対抗するための、古代日本を研究する学問である。

 ここで、対抗概念という陥穽(=落とし穴)に注意してほしい。

 

「日本の歴史は美しい。ゆえに、日本は中国より素晴らしい」

「日本の歴史は美しい。ゆえに、日本は世界の中でも素晴らしい」

「日本人は優れている。ゆえに、日本は中国人(欧米人)より優っている。その理由は、万世一系の皇室だ。武士道だ」

 

 最初から対抗概念を作るつもりだから、このような発想ができるのである。最初に一切の前提も根拠もなく「日本は素晴らしい、美しい」と結論を出しておく。中国や欧米に、“対抗”するためだ。前提も根拠もないから、自分に都合の良い推論ができる。コレ、どんなに頭のいい人でもハマる。対抗概念は、とても危険なのだ。

 

「この直線は不完全だ。ゆえに、どこかに完全な直線がある」

「この社会は間違っている、ゆえに、どこかに完全な社会がある」

 

 これらの推論は完全な間違いだ、と指摘したのはニーチェだ。彼の言う通りである。前提も根拠もなく“完全な社会”を夢想して、現実社会に“対抗”する。現実社会を弄って、身勝手な社会変革を試みる。こんな人は、犯罪者から大物政治家までゴロゴロいるのだ。さきほどの、対抗概念の”一般型”である。

 私の考えでは、本居宣長はこの“対抗概念”という罠にハマっていない。小林秀雄はちょっと危うい。二人の違いは、30%の領域の「あーーーーーーーっ!!!???」への処し方にある。

 

② 『理』の正体と限界

 

 対抗概念とは、

 

「約30%は共通理解が成立しない領域」= 日本の歴史は美しい

                   どこかに完全な社会がある

 

 を、「約70% の共通理解可能な論理」で証明するフリをすることだ。もちろん、それは無茶な試みでしかないのだが、それをやってしまうのが人間だ。19世紀後半から20世紀末まで、

 

「マルクス主義は、この世で唯一正しい思想である。ゆえに、この社会は間違っている。ゆえに、暴力を使って人をたくさん殺して、マルクス主義革命を行っても良い」

 

 と、たくさんの人々が本気で考えた。天才的な知力を持つエリートから、名もない労働者たちまで。

 どうして、こんなことが起こるのか?実は、この答えはすでに書いた。『理(=科学)』が抱える、初期不良のせいなのだ。

「おいおい、初期不良って何だ?」と、言われてしまうだろう。

 

 ではここで、『理』の正体を追求してみよう。『理』の正体と限界だ。私の知る限り、この問題を最もシンプルに説明したのは、哲学者のカントである。代表作「純粋理性批判」において、彼は下表のように考えた。

 

       考え方     正しいこと   (世界の)理     ※1 私の状況

 世界>私 世界は整合的に 多数意見>私   存在する       幸せ

      できている   (常識)              世界=理

 

 世界<私 世界は整合的に 多数意見<私   存在しない      不幸

      できていない  (常識)                  or 

                       わからない(疑い)  

                       世界/=理(※2)

 

 ※1「私の状況」という項目のみ、個人的見解を付け加えた。

 ※2 ”/=”とは、=の反対、等しくないという意味である。

 

 自分の考えよりも、世界の仕組みを信用できるとき。私たちは、「世界は整合的にできている」と考える。信仰を持つ人や、科学万能主義を信じる人は、「世界>私」と考え、「世界=理」と考える。このとき、私たちは”幸せ”か、または何かにすがって安心しているときである。

 一方で私たちは、世界を信用できないときがある。こういうときはたいてい、挫折したり裏切られたり失恋したりして、「これまでの自分と人生」を疑っているときである。つまり、不幸なときである。

 自分が不幸なとき、私たちは「世界は整合的にできている」とは、どうしても考えられない。内的な疑念が、世界の仕組みの“不在”を確信するのだ。つまり、「世界<私」と考え、「世界/=(違う)理」(→世界は『理』で説明できない)と考える。このような人は、懐疑論者と呼ばれる。

 

 カントは、

・「世界>私」、「世界=理」と考える人は、世界が整合的でないと考えることができない。

・「世界<私」、「世界/=理」、と考える人は、世界が整合的だと考えることができない。

 両者の違いは、【世界への関心(考え方)の違い】である。ただそれだけ。しかも、両者の考えは等価であり、どちらが間違っているということはできない。つまりカントは、「『理』は、存在するとも存在しないとも言えない」と主張したのだ。

 

・「世界=理」と考える人にとって、「世界/=理」と考えることは“過大”である(「世界/=理」なんて、大きすぎてイメージすることができない)。

・「世界/=理」と考える人にとって、「世界=理」と考えることは“過小”である(「世界=理」なんて、簡単で小さすぎる。世界は、私の疑いは、もっと大きい)。

 

 言い換えれば、「世界とは、チェスや将棋の盤だ」と考えるといい。平穏な生活を送るとき、私たちはチェスのルールや将棋のルールに従う。それが、社会の中で生き働くことだ。与えられたルールの中で、成功して幸せになることを目指す。

 しかし上手くいっていないとき、私たちはチェス盤や将棋盤そのものを疑う。その存在を否定する。これが、「世界<私」、「世界/=理」の状態である。よく考えれば、チェス盤や将棋盤は「大人の世界」と言える。若者はいつの時代も、「大人の世界」に反抗する。さしたる理由もなく、大人になるのを嫌がる。つまり、「世界<私」、「世界/=理」の状態は、普遍的な存在理由があるのだ。

 両者の意見相違が、解決することはない。両者の意見は並び立って、どこまでも平行線を描く。カントは、完全な『理』を作ることは不可能だ。どんなにがんばっても、何年かかっても無理だと言っている。約1,000ページもある、「純粋理性批判」の最重要ポイントはこれである。これだけ、と言っていい。カントの意見に、私は全面的に賛成だ。

 かくしてカントは、『理』は不可能だと宣言する。けれど、『理』は不可能ということは、誰でもいつでも、

 

Aさん「私は、”世界=理”だと思う」

Bさん「私は、”世界/=理”だと思う」

 

 と言い合える。AさんとBさんの食い違いを、どうやって調停すればいいのだろう?