9 『理』と恋

 

 現代でも江戸時代でも古代でも、私たちは『理』と”恋”という二つの問題を抱える。いくら勉強しても、私たちは『理』(合理、科学的思考)のみを学ぶ。大学院で博士号を取っても、朱子学を一生かけて学んでも、”恋”について学ぶことはない。誰も”恋”について教えてくれない。

 それなのに、この世にはラブソングがあり、和歌や詩がある。源氏物語に歌舞伎、小説、映画、演劇、漫画、アニメ、ゲーム・・・。みんな”恋”を主題にしている。こんな社会は、おかしくないか?さらに、”恋”と”性欲”はセットである。ところが”性欲”は、真剣に語られることなく”穢れ”とされる。

 きっと、本居宣長は思ったのだ。「こんなの、おかしい!」どこまで勉強しても、”恋”も”性欲”も出てこないじゃないか。柿本人麻呂は、「ながながし夜をひとりかも寝む」と歌ってるじゃん。本当は、二人で寝たいのだ。エッチしたいんだ。それが叶わぬことに耐える。そこに、美しい歌が生まれるんだ。

 朱子学では、恋は“気の乱れ”とされる。恋に狂ったりしないで、心を落ち着ける(=気に流されず理に従う)べきだ。仏教でも、恋は煩悩である。煩悩は焼き尽くすべきものだ。

 

本居宣長「違う、違う、違う!『好色のことほど、人情の深きものはなきなり』なんだよ。人間ってのは、楽しいこと、嬉しいことよりも、『かなしき事、う(憂)きこと、恋しきこと』に心が動くんだ。儒学だの仏教だのに惑わされず、自分の意(こころ)に素直に従うべきなんだ」

(本居宣長「あしわけ小舟」より意訳)

 

 かなり激しい物言いだ、と思われるかもしれない。本物の本居宣長は、こんなノリで文章を書いている。彼は、とびきり熱いヤツだった。原文も、この調子なのだ。

 小林秀雄の「本居宣長」は、“五分の一は引用”と思うほど、全編「古文」だらけの本である。我慢して読んでいると、だんだん古文に慣れてくる。関西に住むと関西弁でしゃべりたくなるように、古文のリズムになじみ、意味がスルッとわかるようになる。すると、本居宣長の熱い語り口も、肌で感じられる。

 本居宣長が、一生かけて訴えたこと。それは、

 

「恋や歌や物語を、儒学(朱子学)や仏教を使って、無理に合理的に解釈するな」

 

 これに尽きるだろう。

「かなしき事、う(憂)きこと、恋しきこと」にこそ、物のあはれがある。心が動かされ、深い感動(痛み、つらさ、哀しさ、寂しさ、・・・)が訪れる。そう宣長が考えたとき、彼の頭には”恋”があった。和歌の傑作が頭にあった。源氏物語という名作が頭にあった。合理的な朱子学から脱出して、素朴で深い感動について語ることだ。

 では、「かなしき事、う(憂)きこと、恋しきこと」とは何だ?この問いの答えは、物のあはれとしか言えない。

 

・物のあはれとは、「かなしき事、う(憂)きこと、恋しきこと」である。

・「かなしき事、う(憂)きこと、恋しきこと」とは、物のあはれである。

 

 こういうのを、循環論法と言う。けれど、これはこれで正しい。なぜならば、物のあはれという表現が“行き止まりの言葉”なのである。これ以上は、詳しく語る必要がない。むしろ、危険ですらある。では、その理由を説明しよう。

 物のあはれとは、ものすごくシンプルに説明すると、私たちが

 

「あーーーーーーーっ!!!???」

 

 と思うことなのである。

 例えば、

 

・初恋をして、告白したけどフラれた。

・最愛の恋人が、私を裏切って浮気した。

・親友が、車に轢かれて死んだ。

・自分の子供が、まだ小学生なのに悪性腫瘍になった。

・尊敬する先輩が、いじめに巻き込まれて自殺した。

 

 このような出来事を身近で経験すると、私たちはこの世の不条理や矛盾に直面する。自分の無力さや、明らかに間違ったことがまかり通る現実世界に憤る。私たちの心が、

 

「あーーーーーーーっ!!!???」

 

と悲鳴を上げる。本居宣長は、過酷な現実に対する心の叫びを大切にした。この有無を言わせぬ感情、心が激しく動き揺れること。ここに、すべての人に共通する“大切な物”を見つけた。

 

 ここでもし、

Aさん「たかが失恋で騒ぐな。俺なんか、親友が死んだんだぞ」

Bさん「たかが失恋なんて言うな。私はずっと付き合ってきた恋人に捨てられたんだ。もうこの世で生きていたくない」

Cさん「恋人だの親友だの、他人の話じゃない。私の子供は、ガンになったんだよ?まだ、10才なのに・・・(号泣)」

 と、お互いの“不幸自慢”を繰り広げても意味はない。悲しさとは、置かれた状況によって異なるのだ。ある人がある状況で、「つらくてつらくて、もう耐えがたい」と感じたならば、その想いは誰とも比較できない“大切な心の動き”なのだ。