7 朱子学とは?

 

 ここで、朱子学の内容に触れておきたい。というのは、この朱子学は極めて合理的(=科学的)なのである。

 朱子学は、別名”宋学”という。宋は、960年から1279年まで存在した中国の王朝である。1127年に、北部地域を女真族の金に奪われたため、それ以降は南宋と呼ばれる。朱子学の創始者、朱熹(1130~1200)は南宋の人である。

 朱熹は、程顥・程頤兄弟(程顥:1032~1085、程頤:1033~1107)という先駆者の考えを取り入れ、儒教を再解釈した。その思想は、唐(618~907)に支配的思想だった仏教哲学に対するアンチテーゼだった。朱熹は、儒教の教典(論語・孟子・大学・中庸・・・四書という)に膨大な解説を加筆した注釈書を発表した。この朱熹の注釈書が、朱子学のバイブル的存在となる。

 四書の注釈の中で、彼は自分の思想を語った。これを思いきって整理すると、

①  理気二元論

②  性即理

 の二つに凝縮できる。

 

① 理気二元論

 この世界は、『理』によってできている。『理』とは、原理・法則のことである。“気”は、『理』以外の全て、と考えるとわかりやすい。気は、物資であり、エネルギーであり、波であり、運動であり、・・・。とにかく、なんでも“気”なのである。

 自然は、自然の『理』によってできている。宇宙は、宇宙の『理』でできている。『理』が、気を支配している。しかし、気が乱れることがある。それが変化であり、生々流転である。

 

② 性即理

 朱子学の特徴は、人間も『理』と“気”で説明することだ。“性”(=人間)は、『理』によって作られている。これが、「性即理」という意味だ。人間も、自然と同様に原理・法則に支配されている。

 このことを、物資的に考えてみよう。人間という物質(身体)は、『理』でできている。『理』が機能しているとき、人間は正常、健康である。しかし、気によって乱れが生じると、不健康になり病気になる。

 次に、精神的に考えてみよう。人間の心は、『理』でできている。『理』が機能しているとき、人間は善である(→性善説)。穏やかで、自己肯定感があり、前向きで創造的である。しかし、気によって乱れが生じると、利己的で悪事に走る、あるいは心の病気になり、うつ病になって自殺したりする。

 どうだろうか?私たちの常識に、上手く当てはまらないだろうか?朱子学は、非常によくできている。現代に通用する、まさしく合理的な思想である。

 

③ 理気のまとめ

           世界         人

                     性即理(=人間の本性は理である)

          自然(身体)  社会     自分   周囲の人     

    理     整合的  仁政、平和    仁  ←  尊敬、感謝 

 ↓      ↑

  落下   上昇

 ↓      ↑

   気     乱れ、災害  競走社会   利己(エゴ)  ← 反感

                   病気          弱肉強食   怒り、悲しみ ← 復讐

 

 上記のように表にすると、朱子学の首尾一貫性は際立つ。なんでもかんでも、理と気による乱れで説明してしまうのだ。しかし朱子学には、致命的な弱点がある(と私は思う)。

 

 第一に、朱子学の『理』も、新しい原理・法則によって乗り超えが可能である。それなのに朱子学は、元の時代に国教になった。元が科挙制度を復活させる(1314)と、朱子学は「新説から定説へ」格上げされた。朱熹の解説書が、公式参考書になった。1904年に、清が科挙を廃止するまで、朱子学は唯一無二の合理的兼宗教的真理として君臨した。こうなると、人の創造性はまったく発揮できなくなる。朱子学にそぐわない言動は否定された。表立って反抗すると、弾圧・処罰された。

 第二に、朱熹の注釈書が問題だ。彼は自分で本を書かず、孔子やその弟子の言動に注釈(解説)を書いた。しかし、「孔子がああ言った、こうした」という文章は、人によってどうとでも取れる。極めて多義的(=たくさんの解釈ができる)である。いくら朱熹が「俺の解釈が正しい」と頑張っても、私たちは「私はそう思わない」と言えるのである。

 なんとでも解釈できる儒教の教典に、極めて合理的な理気二元論を書き込んだ。そのやり方は、最初から異論異説反論を招く運命にあった。その証拠に、江戸時代に朱子学が広まると、反朱子学を唱える日本人が次々に現れた。有名どころでは、伊藤仁斎や荻生徂徠がいる。彼らに、本居宣長を加えてよいだろう。

 

 朱熹の「論語註解」を読んでみた。彼は、原文にくどいほど詳細な注釈を記入している。そもそも儒教の解説書、注釈書なんて、大昔から現代まで山ほどある。紀元前5世紀ころの書物を、現代まで動かせぬ聖典とすることに、中国という国の”運命的な制約“がある。良くも悪くも、国の性格を彩っているのだ。もちろん、欧米にはキリスト教がある。1〜2世紀に生まれた新約聖書が、彼らの”十字架”である。

  本居宣長は、35年もかけて古事記(8世紀成立)の解説書を書いた。「日本には、古事記がある」彼の狙いがわかる気がする。