2 科学的思考の限界

 

 しかし、わからないことだらけでは、私たちは不安なままだ。わからないことに、なんとかして理屈をつけるのが人間である。わからないことを理解可能にし、予測可能にする。合理的に、科学的に、物事を整理していく。人間社会は、知識を整理し進歩発展していく。これが、世の中の常識だ。

 ”科学的”という言葉に、私たちは全幅の信頼を寄せている。”科学的”に考えれば、世の中の謎は全て解けると考えている。したがって、「美や恋だって、”科学”を使えば解けるのではないか?」こう考えるのが、自然の成り行きだろう。ひねくれた発言をするが、私は”科学”を、あまり信用していない。科学には、少々弱点があるからだ。

 

① 科学は、”まだわからないこと”ないし”誤差”を数%抱えている。

 最先端の科学的知見は、常に”まだわからないこと”、ないし”誤差”を持つ。その理由は、原理的な結果である。どんな科学理論も、必ず単純な原理から構築されている。どんなに高度な理論も、単純な原理の組み合わせである。ゆえに単純な原理が、現実をすべて説明することになる。それゆえに、単純な原理で説明できない現象が”必ず”残る。これが、”まだわからないこと”である。

 別の観点から説明しよう。単純な原理から計算した結果と、現実の測定結果が一致しなかったとしよう。すると、計算と一致しない結果は”誤差”または”異常値”とみなされる。”誤差”、”異常値”は捨てられてしまう。捨てることで、単純な原理は生きながらえる。

 そうしているうちに、”まだわからないこと”や”誤差”を上手く説明する「新しい原理」が現れる。偉大な科学的発見だ。だがこの「新しい原理」も、(どんなに難しく見えても)単純が原理からできている。そしてこの「新しい原理」もまた、”まだわからないこと”と”誤差”を持つ。この繰り返しなのだ。

 

② 人間は難しいことを、簡単にしないと理解できない。

 ① で指摘したように、単純な原理には常に問題(=限界)がある。にもかかわらず、私たちは難しいことを、単純にしないと理解できない。現実の問題を、筋道の通った整合的な原理にするのだ。筋道が通っていて整合的な話は、誰でもスルッと解できる。みなさんの周りに、頭のいい人がいるだろう。彼らは必ず、「難しいことを単純な原理に”変換して理解している”」。彼らは、単純な原理を難しく語ってカッコつける。だから、頭がよく見えるのだ。

 私たちは学校で、さまざまなことを習う。とくに理系科目では、たくさんの”公式”を覚える。これこそ、「単純な原理」である。文系科目も、簡単に記憶できるコツをたくさん身につける。「文章は一つの意味を持つ」と教わり、「歴史は一貫した進歩のストーリーだ」と学習する。すべて筋道が通っていて、整合的で「単純な原理」でしかないのだが。

「単純な原理」は、しょせん単純でしかない。大人になって社会に出たとき、学校で習ったことは以下のようにリセットすることをお勧めする。

 

・理系の公式は、誤差を持つ。

・文章は、複数の意味を持つ。

・歴史は、解釈する人によって異なる。

 

 大人になっても、リセットしない人は多い。しなくてもよいが、とても苦労する。学校で習った「単純な原理」は、社会生活を送るうちに必ず破綻するからだ。なぜ破綻するのか?それは、科学的(=合理的)思考が、上記の

 ① 科学は、”まだわからないこと”ないし”誤差”を数%抱えている。 ② 人間は難しいことを、簡単にしないと理解できない。

という限界を持つからだ。この問題の解決は、不可能である。

 私はなぜ、科学の悪口を言うのか?実は悪口ではない。科学の正体を、明らかにしておきたいだけだ。科学的思考は、最初から限界を持つ。その限界を、「仕方ないな」と割り切って付き合いたいのである。