1 これまでのまとめ

 

 ここまでの議論を整理しておきたい。

 

① 幸福追求権 

 異性愛者も同性愛者も、等しく”幸せになる権利”を持つ。

② 美と恋 

 美と恋は、個人の幸せの条件である。ところが美と恋は、他者たちの多数意見に支えられている。

③ 美の正体は、不明である。

 なぜ私は、異性を美しいと思うのか?なぜあなたは、同性を美しいと思うのか?この疑問に、人間は答えることができない。なぜならば、私たちは”誰かを愛する理由”を知らないからだ。正確に言えば、”誰かを愛する理由”を言葉では言い尽くせないのだ。

④ 男という重し、女という重し

 人間は誰でも、社会の中で”男”か”女”を演じることを求められる。これは、大多数の異性愛者に支えられた、暗黙のルールである。だが子供たちにとって、”男”か”女”に成長することは強いストレスとなる。男という重し、女という重しが、子供たちの背中にのしかかる。しかも同性愛者は、このルールに最初から従うことができない(→仮面の告白)。

⑤ 時間と可能性

 人生は有限である。子供時代も、若くて美しい時代も、大人になって相応の地位に就き、権力を握ることも有限である。誰もが、いつかは死ぬ。だからこそ、私たちは「幸せになる」という可能性を追求する。死(時間は有限)こそが、私たちの努力や向上心や美への憧れの源泉なのである。多くの同性愛者は、幸せに挫折する。挫折や苦悩のために、美を反転させる者も現れる(倒錯)。

⑥ 性欲とは公共的である。

 性欲は、美しいものに恋をして抱くものである。前述のとおり、美と恋は他者たちの多数意見に支えられている。ゆえに性欲(=美と恋)も、多数意見に支えられている。大多数の人は、社会で”価値ある人”に性欲を抱くことになる。性欲は「公共的な価値」を持ち、とても民主的である。美と恋から、性欲を分離することはできない。どんなに倒錯した性欲であっても、必ず”価値ある人”への恋心が隠れている。

⑦ 倒錯と穢(けが)れ

 性欲は公共的だが、一般の人はこの事実を知らない。自分の性欲が「倒錯」しているとき、ないし「倒錯」した経験をしたとき、私たちは自分が”穢(けが)れ”たと考える。自分の”穢れ”を解消できないならば、私たちは幸せになることができない。自分を嫌悪し、自分自身の幸せを否定することになる。

⑧ 幸せと業縁(他力)

 不幸をいかにして克服するか?自分の”穢(けが)れ”を、いかにして受容し馴致(じゅんち=徐々に慣れること)するか?この問題は、自分の力では解決できない。どんなに頑張っても、”自力”では無理である。どんなに理屈をこねても、あらゆる教養を身につけてもダメだ。現実は、圧倒的な他力(業縁)であり、現実に抗うことはできない。解決策は、他人にある。信頼できる他人との”つながり”にある。信頼できる他人の”言葉”にある。

 

 以上が、これまでの要旨である。