※ 以下の文章は、みなさまの個人的信条により、不快な思いをされる場合があります。ご注意ください。

 

 私は変態性欲と聞いたら、基本的に守りにいくと決めている。つまり、変態性欲を持つ方の味方になる。とは言っても、私が変態性欲的嗜好を持っているわけではない。血縁や友人・知人など、身近に変態性欲を抱く方がいるわけでもない。でもとにかく、私は彼らの味方だ。そう決めたのだ。20歳の頃に。

 

 ざくっと、変態性欲と呼ばれるものを並べてみた。

 

・同性愛

・ナルシズム

・フェティシズム、フェチ

・服装倒錯

・小児性愛

・近親相姦

・獣姦

・屍姦

・SM

・人肉嗜好

・糞尿愛好症(スカトロ)

・動物虐待

・露出症

・窃視症(のぞき、盗撮)

   ・

   ・

 

 同性愛が、リストのトップにあるのは理由がある。

 最近、LGBTがよく話題になる。彼らの人権を守ろう、という方向へ世の中は動いている。だがその一方で、根強い反対者がいるのも事実だ。今から30年前ならば、同性愛はりっぱな変態性欲だった。あるいは、精神病と診断されていた。適切に治療すれば、異性愛へ戻ると思われていた。

 2021年にこのリストを見ると、私は「大したことないな」と思う。というのは、どれもちょっと尖った小説や映画や漫画などで、ごく普通に題材とされるからだ。また、ネットに溢れるアダルト情報、動画は、どれも簡単に閲覧・鑑賞できる。情報社会は、変態性欲の周知に貢献したのだ。

 

 では私が、変態性欲の味方である理由を話そう。その理由は、変態性欲が「生き地獄」だからだ。きっかけとなった思い出を語ろう。私は大学生のとき、変態性欲で悩む女性たちの本を読んだ。その本の記憶は、今でも鮮明だ。いかに私が、強いショックと影響を受けたかわかる。

 

<一人目は、浣腸愛好者の女性>

 この女性は中学のとき、とある病気で入院した。治療の過程で、看護婦さんに浣腸を受けた。若い彼女は、我慢できずにベッドの上で排泄してしまったそうだ。しかも、その看護婦さんが見ている前で。

 看護婦さんは、とても優しかったそうだ。服やベッドを汚し、しくしく泣いている彼女を慰めてくれた。服を脱がせ、身体を拭いてくれ、ベッドもきれいにしてくれた。決して、『お漏らし』をした彼女を責めなかった。

 入院後この女性は、自分で浣腸液を購入した。家に一人のとき、彼女は全裸になって自分に浣腸をするそうだ。浣腸ならば、私も経験がある。小学生のときに、病院で一度受けた。あれは猛烈に、腹が痛くなる。それはもう、逃げ出したくなるほど痛い。

 だがこの彼女は、激しい腹痛に「快楽」を感じることができた。ギリギリまで我慢して、裸のままトイレに入って排泄するそうだ。ここまではいい。だが全てが終わると、いつも猛烈な自己嫌悪に陥ると言う。

「私は、地獄に堕ちるんだ。私は穢れているんだ。だから、一生結婚はできない」

 この女性は、そこまで自分を追い詰めた。彼女は、恋人は欲しくないと語った。「でも、“あの看護婦さんのような女性”に、相談に乗ってもらえたら嬉しい」と最後に記していた。

 

<二人目、露出願望の女性>

 この女性は、若いころから露出願望があったそうだ。だが同時にその願望を、自ら激しく恥じていた。彼女も強い自己嫌悪を抱え、挙句に男性恐怖症にまでなった。30才になるまで、男性と付き合えなかったそうだ。

 だが30才を過ぎて、彼女は一大決心をした。自分の露出願望を肯定し、こんな自分を認めてくれる人を探そう。彼女は、妹に全てを打ち明けた。二人は街に出かけ、衆人環視の中で露出プレイをした。露出する姉の姿を、妹が写真撮影した。その写真を、同じ趣味の方々に配るそうだ。つまり、露出写真でお見合いをするわけだ。

 撮影に協力した妹は、姉の変態性欲を理解できなかった。しかし撮影中に、自分の姉は何度も泣いたと言う。「この写真を見てもらえば、“自分を理解してくれる人”に出会える。つまり、やっと恋人を作れる」姉はそう言って、撮影に耐えた?そうだ。

 

 この二人の話を聞いて、あなたはどう思われるだろうか?変態性欲者のたわごとと、笑って済ませるだろうか?

 変態性欲は、圧倒的に少数派である。だから、変態性欲者を持つ人は、その嗜好を必ず隠す。徹底的に、必死になって隠す。それは、「自分が穢れている」という自覚があるからだ。

「私、週末はご主人様に監禁されて過ごすんです。何度も浣腸されて、すごく楽しいんです」などと、日常生活で話す人はいない。

「私はね。金曜日と土曜日の夜は、女装して◯◯公園に行くんだ。ゆっくり散歩したり、街灯の下でしばらく立ったりする。すると、同好の男たちに声をかけてもらえるんだ」と、明るく話すおじさんもいない。

「昨夜は最高。今夜も最高。ああ、毎日毎日、変態性欲を全力でプレイするぞ。私って、とっても幸せ」と、公言する人もいない。

 

 変態性欲を志向することは、誰にも言えない秘密を持つことだ。この秘密が、人を苦しめる。変態性欲は「穢れた自分」というイメージを伴う。普通の人と、自分は違う。自分は劣っている。いや、自分は汚れている。けれど自分は、変態的欲望に抗うことができない。

 変態性欲を秘匿する自分と、密かにそれを実現する自分。真っ二つに分裂しながら、見かけだけ平静を装う。日常生活を送りながら、変態性欲が叶えようと模索する。人は我慢すればするほど、願望が実現した喜びは大きくなるものだ。その一方で、罪悪感や孤立感が胸を突く。裏の顔を持つこともつらい。誰かに見つかって、自分の性癖がバレる危険と隣り合わせだから。

 変態性欲者は、人から隠れ、陽の光を避けて生きる。闇に紛れ、偽名を使い、見知らぬ人と付き合う。身近な人には、絶対に自分の本性は見せない。こんな人生は、とっても疲れる。精神的にも相当辛い。生き地獄と言えるだろう。

 きっと多くの変態性欲者は、夢を持たない。刹那的な生き方をする。いつも悲観的で、あらゆることにシニカルな見方をする。信仰心など持つはずもなく、真善美なんて嘘っぱちだと考える。全て、仕方ないことだ。変態性欲者には、すがるものが存在しないから。

 

 さて、ある種の人はなぜ変態性欲を抱くのか?この疑問の前に、「美」とは何か?と考えてみよう。

 この世には、「美学」という学問が存在する。美しいものとは何か?を、「完全に」解明する試みである。

・美しい容姿

・美しい言葉、文章

・美しい振る舞い、さらに美しい舞踏

・美しい芸術

・美しい商品(服、装飾品、家具、建築、車、街など)

・美しい自然

  ・

  ・

 

「美しいものが、この世に存在する」この確信は、誰もが持つだろう。だが、多くの人が指摘する通り、「何が美しくて、何が美しくないか」は決定できない。なぜなら、人の好みは千差万別だからだ。

 たとえば、Apple の製品は徹底してシンプルなデザインである。ではiPhone は、美の核心を掴んでいるのか?そんなことはない。時代が、シンプルを好んだだけだ。時代が、複雑さと多彩さを好めば(ペルシャ絨毯のように)、Apple の製品は売れなくなる。美とは、常に揺れている。スカートの丈のように、長くなったり短くなったりするのである。

 勘違いしないでほしい。美は、存在する。だが、美の秘密は存在しない。美の基準も存在しない。こうすれば美しくなるという、確実な方法はない。でも私たちは、誰かに恋をするだろう。誰かを美しいと思うだろう。理屈関係なしに、私たちは自分なりに美をつかむ。自分だけの、自分にとって「特別な美」をつかむ。

 最初に紹介した浣腸愛好者の女性が、“あの看護婦さんのような女性”に相談したいと言っていることに注意しよう。おそらく彼女は、あの気の毒な事故(中学生のときにお漏らしした)を経験して、『優しい年上の女性』に自分の美を見出したのだ。つまり、彼女が求めるのは女性の優しさである。優しくされた『あの出来事』を、追体験するために自分に浣腸をしている。浣腸液は、あの看護婦さんへの橋渡し役なのである。

 整理すると、この浣腸愛好者の女性にとって、

・優しい看護婦さん

・甘える自分

・甘える理由=お漏らし=浣腸

・恥ずかしい格好(裸)→汚れた身体を拭いてもらうため

・二人きりの病室=とっておきの、ロマンチィックな秘密の行い

 などがごっちゃになって、「彼女なりの美」が構築されていると思われる。

 ここから、浣腸だけクローズアップすれば変態性欲になるかもしれない。だが逆に、浣腸を消去すれば素敵な思い出だ。

 他の“誰か”が、彼女と同じ体験をしたとしよう。この“誰か”が、浣腸愛好者になるかはわからない。浣腸好きではなく、看護婦の制服フェチになるかもしれない。あるいは、恥ずかしいことを好む、被虐的嗜好(マゾヒズム)を持つかもしれない。いやいや、自分の体験を誰かにしたがる、加虐的嗜好(サディズム)を持つかもしれない。結局、わからないのである。

 だが、確実なことが一つだけある。この浣腸愛好者の女性にとって、「この思い出は美しい」ということだ。この事実が、最も重要だ。なぜならこの彼女は、『最初の一歩』で失敗しているからだ。彼女はこの思い出のために、浣腸が好きになった。それなのに、「自分は穢れていて、結婚できない」と言う。それは、大きな勘違いだ。浣腸液は、橋渡し役でしかないんだから。

 二番目に紹介した、露出願望の女性。彼女は、そのきっかけを語っていない。だが、何か「美しい思い出」があるはずだ。思い出(特別な体験)を梃子にして、人は美の萌芽をつかむ。その美をきっかけにして、私たちは多種多様の「特別な美」を生む。その特別な美を、私たちは時間をかけて大切に育てる。

 はっきりしておこう。浣腸愛好も露出願望も、他人に迷惑をかけない限り「善きこと」である。他人に迷惑をかけないとは、「公共の福祉に反しない」と言うことである。浣腸愛好や露出願望を持たない人にとっては、目の前で脱糞されたり公共の場で露出されるのはかなり困る。でもそれは、誰もが多種多様な美を持つからだ。あなたの美と、私の美は違う。ただそれだけの理由である。

 では、『浣腸愛好や露出願望が迷惑ではない人』はどれだけいるだろう?断言しよう。かなり多いと、私は思う。浣腸愛好も露出願望も、かなりの人々がすんなり受け入れられると思う。これは、情報社会の発展のおかげだ。私たちはもう準備万端、大抵のことでは驚かないのだ。最初のリストぐらいなら、「ああ、そう」で済むだろう。

 

「俺、死姦が夢なんだ」

「へえー。でも、チャンスなさそうだね」

「そうなんだよ」

「人形で、我慢すれば?」

 

 こんな会話を、交わせる人が身近にいること。それだけで、変態性欲者の孤独感は和らぐ。だが何より大事なのは、

 

「自分の特別な美」=「変態性欲」=「善きこと」

 

この等式について、よく考えることだ。

 

 あ、変態性欲者でない方は、考えなくていいです。でも将来、変態性欲を抱いたら、考えてください。その可能性は、十分にあるから。誰でもある日突然、変態性欲に目覚め得る。今まで、まったく興味なかったのに。では、それはなぜか?美とは、そういうものなのだ。人が生きて、時間が流れ、目の前に新たな可能性が現れる。その可能性が、自分にとって新たな美であるとき。その美は他の人に、変態性欲に見えるかもしれない。

 変態性欲が「善きこと」?変態性欲に悩む人だって、耳を疑う話だろう。では、順を追って説明したい。

「善きこと」があり、もう片方には「悪しきこと」がある。それでは、善と悪とは何か?この質問を、無神論者にしても無駄である。なぜなら、

 ① 無神論者は意見がバラバラで、善悪について考えを統一することが不可能。

 ② 加えて、無神論者は実は自信がない。善悪がわかっている人なんていない。

からである。

 では、信仰心を持つ人はどうか?宗教はいろいろあるが、神の存在を信じる点で一致できる。従って、善悪も似通っているのではないか?

 実は、この人々もダメである。まず、信じている神がかなり異なる。キリスト教、イスラム教、仏教の神様はみんな違う。しかも、言うことが全然違う。神様が決めたルール(=戒律)が違う。しかも各宗教に、分派がいっぱいいる。分派のルールは、本家と異なる。従って、信仰心を持つ人々の善悪もバラバラである。

 こう見てくると、善悪の統一見解は不可能という結論になる。異なる信仰やイデオロギー、ナショナリズムの衝突は、最終的に殺し合い(=戦争)に行き着く。仮に勝敗が、決着したとしよう。だからと言って、敗者が勝者の言い分を認めたわけではない。殺し合いの決着は、新たな殺し合いの始まりである。

 これでこの世に、「善きこと」も「悪しきこと」もないとご理解いただけただろう。普通の人は、ここで行き止まりだと思う。だが、その先があるのだ。私たちは、信仰の有無に関わらず、ルール(=戒律、道徳、法律など)を守って生きている。ルールを守るのは善で、守らないのは悪である。それは、なぜだろう?

 ルールは一般に、宗教の影響や思想(民主主義など)の影響を受けている。ここで、さまざまなルールの見かけを取り払おう。ルールが必要とされる根拠を問おう。

 それは、「人と人が、一緒に暮らす」ことである。他人と共存して、仲良くやっていく。そのために、ルールが生まれた。ルールは、人を縛るだけではない。「私とあなたは、同じルールを守っている。だから、私とあなたは同じ価値観を共有している」この仲間意識=村民→市民→国民という、結束と統一のためにルールはあるのだ。

 だから当然、ルールを守らない人は排除される。村八分とか、異端者とか、魔女とか、異教崇拝者とか、何か理由をつけて追い出される。異物を排除することで、村民→市民→国民という、仲間意識は維持・強化される。

 ここまでを、整理する。

① 善悪の統一見解はない。

② だがルールは、それを守る人々を結束・統一する。(善悪の共有)

③ ルールは、異物を排除する。

 この③が、曲者である。実はこれが、変態性欲を「穢れたもの」にする仕組みなのである。

 旧約聖書に、ソドムとゴモラの街が出てくる。この街は、背徳的、倒錯的な性行為が横行していたそうだ。そのため神の怒りを買い、焼き滅ぼされたと言う。これはまさに、③の排除である。「背徳的、倒錯的なことをしたら排除する(殺す)」と、人々を脅迫している。道徳的に考えて、とても褒められないと思う。

 はっきり言って、ルールの内実はどうでもよい。現に世界中のルールは、国・地域によりバラバラである。日本国内だって、北から南まで眺めればルールはかなり異なっている(関東と関西など)。だが日本人という枠で括って、仲間意識を維持しているのだ。同じ日本人だからと、細かい違いに目を瞑っているわけだ。

 では排除された、変態性欲者はどうすればいい?街を追い出され、森でひっそり暮らせばいいのか?それとも変態性欲を隠し、みんなと仲間のふりをすればいいのか?世界中の変態性欲者が、後者を選んで生活を送っているだろう。

 私は、ソドムとゴモラの街を復活させたいわけではない。ただ、変態性欲の正体をあばきたいだけだ。というのは、「変態性欲は、ルールを破っているわけではない」からだ。ルールの根拠が、

 

「私とあなたは、同じルールを守っている。だから、私とあなたは同じ価値観を共有している」

 

 というシンプルな発想にあるならば、ルールを守るもの同士の性的嗜好はどうでもいいからだ。ある人が浣腸愛好者で、別の人が露出愛好者であっても、みんなのルール(道徳、常識的価値観、法律など)で一致できれば問題ないんじゃないか?浣腸や露出を、共感できるもの同士で楽しむ。決して、それらを好まない人を巻き込まない。これならば、万事OKではないか?

 これで、変態性欲の社会的問題は解決した。変態性欲者は、自分の嗜好を公表してもしなくともよい。自分の自由である。仮に公表しても、排除はされない。ソドムとゴモラは再現しない。変態性欲は、少数派なだけである。人に迷惑をかけない限り、それ以外に排除される理由はないからだ。

 それでは、もう一度、

 

「自分の特別な美」=「変態性欲」=「善きこと」

 

に戻ろう。ここには、“他人とのつながりを求める想いとその挫折”が詰まっている。 

・下着、制服、ストッキング、靴などに性的関心を持つこと。

・誰かのスカートの中や水着、体操服姿を盗撮すること。

は、一般にフェティシズム(衣類、装身具などを性的対象として愛好すること)と呼ばれる。これは今のところ、りっぱな病気(精神医学において障害)とされている。偉い大学の偉い学者さんやお医者さんが、そう言っている。

 恐ろしいほどの、酷い誤解である。フェティシズムは、ルールを破っている場合に限って問題である。他人に不快な迷惑をかけたり(軽犯罪)、財産を奪ったり(窃盗)するから問題なのである。問題を起こさなければ、フェティシズムはごく普通のことである。それを証明するために、ここで簡単な心理実験をしたい。

 

 さて、みなさん。中学生か高校生のときに、大好きだった人を思い浮かべてください。男でも女でも構わない。同級生でも、先輩・後輩でも、大人でも子供でも構わない。とにかく、ものすごく好きだった人を思い出してください。

 次に、あなたは教室にいます。無人の教室に、あなたは立っている。目の前に、テーブルがあるとします。その上には、「汗びっしょりのTシャツ」があります。びしょびしょで、ぷーんと鼻をつく嫌な匂いがします。「汚いな、こんなもの放置するな」と、あなたは思います。

 ところがなんと、そのTシャツが「あなたの大好きな人のTシャツ」だとわかりました。中学や高校時代の、あの人です。Tシャツの汗は、あの人の汗だったのです。鼻をつく匂いは、あの人の匂いだったのです。あなたは、どう思われますか?「物」でしかなかったTシャツに、「命」が宿るのを感じませんか?

 あなたは、そのTシャツをどうしますか?自分の手で、触れてみたいと思いませんか?手にとってみたいと思いませんか?自分の胸にあてて、両手で大切に抱きしめたいと思いませんか?Tシャツを顔に押しつけて、あの人の汗の匂いを嗅ぎたいと思いませんか?本当は悪いことだけど、このTシャツを自分のものにしたいと思いませんか?

 

 このテストの回答は、胸に仕舞っておいて構わない。だがこの「Tシャツ」の話だけで、フェティシズムの正体がつかめるだろう。Tシャツに、あまり意味はない。大切なのは、「大好きなあの人」なのである。Tシャツは、あの人への橋渡しでしかない。

「フェティシズム=衣類・装身具などを性的対象として愛好するもの」などという考えは、とんでもない勘違いである。先の浣腸愛好者は、浣腸液を「あの人」への橋渡しにしていた。同様に、女子高生の制服が好きな人がいたとしよう。その人は制服の向こうに、

① 具体的な人物=他ならぬあの人

② 自分のタイプの人(→これは、たくさんの人を合成して作られる・・・母親+小学校の先生+家庭教師の女子大生、・・・などなど)

 のどちらかを見ている。何より重要なことは、

 

・「物」を通して、人とつながる。

 

ことなのである。つまり、「人と人が、一緒に暮らす」。だからフェティシズムの人も、誰かとつながろうとしているだけなのだ。これは、普通の恋愛と変わりない。ただし、フェティシズムが「物」に固執するように見えるのは訳がある。その理由は、相手に「拒絶」されるからである。あるいは、現実に「拒絶された」からである。

 Tシャツの例を使えば、あなたが「あの人」のTシャツを盗んだとしよう。運悪く、それがバレたとしよう。あなたはもう、学校で変態扱いされる。学校でも近所でも、この手の話題は受ける。だから、みんな知ることになる。その結果、あなたは立ち直れないほどの傷を負う。

 浣腸愛好者の女性が、一生結婚できないと考えたのを思い出そう。露出願望の女性が、若くして男性恐怖症になったことを思い出そう。変態性欲は、排除される。その恐怖。その体験。心の傷。誰だって、傷つくのが怖い。だから、その嗜好を隠す。想いが真っ直ぐに、人には向かない。人とつながることを、断念しているからだ。その結果、「物」に固執するのである。自分には、「物」しか残っていないのだ。これが、「挫折」体験である。

 妻子ある人が、スカートの中を盗撮することもある。人も羨む成功を成し遂げた人が、学校に忍び込んで制服を盗むこともある。損得勘定からすれば、彼らは人生を台無しにしたように思える。だがフェティシズムだって、他の変態性欲だって、結局は恋の一形態なのである。誰かを好きになったり、好きなタイプの人に憧れたりしているだけなのだ。

 人は、恋をする。それは、素敵なことだ。上手くいってもいかなくても、「善きこと」である。であれば、変態性欲だって「善きこと」だ。内実は、同じなんだから。

 もし、あなたの大好きな人が、

 

「私の制服、全部あげるよ」とか、

「私が履いてるパンツ、いつでもあげるよ」

 

 と言ってくれたとしよう。制服や下着好きの人には、非常にありがたい話である。だがすぐに、「これは、違う」と気づくはずだ。

 というのは、フェティシズムのエネルギー源、「挫折」が解決されてしまうからだ。あなたの大好きな人が、あなたの物質的欲望を叶えてくれる。するとあなたは、もう「物」に魅力を失うだろう。物よりも、大好きな人の「心」が欲しくなるだろう。自分を、好きになってほしくなるだろう。これは、ごくごく普通の恋である。

 

 以上が、私が変態性欲を守る理由である。重ねていうが、ルールを破ってはいけない。犯罪は論外である。

 変態性欲を持つ、みなさん。あなたは、何一つ悪いことはしていない。だがあなたは、浣腸や露出などが好きだ。それはわかった。OKだ。たかがそれだけのことで、一生悩むなんて不当じゃないか?変態性欲だって、流行り廃りがある。スカートの丈と同じなのだ。何でもいいのだ。だから、大した話じゃない。