もちろん、土日もくもんを休まずやらせる。
それは正しい。
正しいのだけど、実は指導者である私は土日はあんまり公文をやらせない。
その代わり、音読みたいなことをさせている。
一番最初、4歳くらいのときにやらせたのはこれ。
犬も歩けば棒に当たる、とか、寝る子は育つ、とか。
フラッシュカードみたいにどんどん読んでやって、どんどん言わせて。
3ヶ月位で全部覚えただろうか。
そのあとは絵本を読ませたり本を読ませたりした時期があって、それから、今度はこれをやらせた。
百人一首の音読。
これも、最初は10枚ずつとか、20枚だけとか。
とにかく仮名遣いが違うんだから難しい。
音読するだけでも大変。
何週間かやって、ようやく50枚連続で読み通せるようになった。
それからさらにまた時間をかけて、すらすら100枚読み通せるようにもなった。
どうやらいくつかは覚えたらしいし、少なくとも古典的仮名遣いとか、文語文の口調は身についた。
七五調のリズムも覚えたので、俳句を作らせてみたらそれなりにうまく575で作れるようにもなった。
全部覚えさせようかとも思っているけど、いったんそれはしばらくやめて、また読書の時期作った。
読書は、児童書も読めば絵本も読む。
そして、いまやらせているのが論語の素読。
百人一首で古典的仮名遣いとか文語文はある程度鍛えられていて
竜田の川の錦なりけり
なんてやってるから、論語も読める。
1日で最初は5段とかそのくらい。
2冊買って、まずはこっちで音読してやって、それを後追いで読ませる。
この本は全部ふりがなが振ってあるから小学生でも読める。
すごくおすすめ。
白文も載ってないし、注釈も和訳も載っていない。
本当に「素読」するためだけに作られた論語テキスト。
なかなかないのよ。
解釈も和訳も、載っているものにはそれなりの価値がある。
でも、素読ってそうじゃない。
意味がわからないけど読む。
それがいい。
そのうち、いつか、意味を自分で考える日が来るかも知れない。
そのときにじゃまになるような解釈がついてないほうがいい。
そもそも論語の解釈は議論百出でいろんな解釈があったりするのだ。
今の時代に合わせた解釈だって必要になる部分もあると思う。
そういうことを踏まえながらまずは意味を考えずに素読するには、このテキストがいいのだ。
最近、お手本は要らないから自分一人で読みたいといいいだしたので、こっちもテキストを見ながら確認はするけど、音読するのは息子だけになった。
これは、なかなかいい。なかなかいいというか、耳が痛い。
だが、それがいい。
8歳の子どものたどたどしくもあどけない声で
「子曰く、君子は食飽かんことを求むる無く、居安からんことを求むる無く、事に敏くして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ」
なんて言われちゃう。
「子曰、人の己を知らざることを患えず、人を知らざることを患う。」
なんて。
まあ孔子先生は厳しい厳しい。
分かる言葉もあれば、難しすぎてわからない言葉もある。
息子はもちろん意味なんてわかってない。
それでいい。
素読ってそういうもの。
しかし、なんども読ませるうちに、こっちもちょっとずつ分かってくる。
それがまたいい。
息子もそのうち分かる日が来るだろうか。
閑話休題。
公文先生は「歌二百 読み聞かせ一万 賢い子」といった。
とにかくたくさんの言葉を覚えることが賢い子を育てる。
そのために幼児のうちに歌を200覚えさせ、読み聞かせを1万回やれということだ。
うちはそれはやってない。
やってないけど、詩は好きだし、読み聞かせも数えてはいないけどまあまあやった。
そしていま、これだ。
百人一首には「歌が100」入ってるけど、これは「歌200」には数えてもらえないだろうなとは思う。
思うけど、まあ新解釈だ。
意味がわからないままたくさんの良い日本語の触れることが大切だと公文先生は仰っている。
浦島太郎の歌で
「かえってみれば、コワイカニ」
これが、「此は如何に」なんだけど、子どもは「怖いカニ」だと思う。
それでいいとおっしゃっている。
まあ、そうだなと思う。
私も、かこちがおなる、も、まつとしきかば、もどこで区切れるのかすらわからないまま覚えて、おとなになった。
ころもほすてふ、をなんで「ころもほすちょう」と読むのか未だに知らない。
そんなことでも、いつか役に立つのがこの「教養」というものなのだ。
というわけで、毎日公文をやらせるだけじゃなくてもいいんじゃないか、って思っているというお話でした。
最近、このブログは「経路不明」のアクセスが増えている。
これはくもんの先生や社員さんが、検索とかじゃなくてメールで共有し合って読んでいるのだ。
以前それで「この記事は不適切だ」みたいなことを言われて消させられた記事がある。
この記事もそんな目に合わないといいのだけど。