何かを書くという行為を、散歩するみたいにやってみようと思う
散歩をしてると、フッ、と日常と現実の間のような場所に迷い込める感覚がある
何かを書く場合、そのプラットフォームも大事やと感じる。
紙に書くのか、ノートに書くのか、noteか、メモアプリか、程よく媒体との距離感があって、集中力が増すというか、書く状態になれるかが重要なところ。
今、本当に久しぶりにamebaに来てみて、なんとなく書き始めた体感がいいので、このまま進めてみようと思う。
最近、特に3月前半、世の中は大きな流れの中にある。
できるだけ飲み込まれないように、今の状況から推し量って裁量の効く範囲で、自分を休ませながら、この波を乗り越えていくつもりでいた。
現実的に、仕方なく動けない面と、自分の性格や情緒的に動けない面、二つの意味でじっとしていることが多かった。
また、何年間に一度あるんやけど、こう、いくつかのトラブルのようなものが重なる時がある。
落ち込もうと思えば落ち込める内容や。
ただもうポジティブはテクニックやと思ってるし、笑うから楽しくなる、とか色んな思考的な取り組みでユーモアに転化できるし、そうやろうとしてる。
頭の中で出たり消えたりする考えや想いは、書くことで自分に定着する。そこから枝葉が派生することもよくある。
書くことは新しい自分と出会ってるってこと。多角的に、多面的に、自分を露わにする。
一昨日、餃子を食べたらモーレツに胃が痛くなった。
その日、なんとなく餃子を食べたい気持ちがあって、夕方にたまたま歩いてた時に某中華料理屋の前を通りがかった。
キャンペーン中、餃子が安くなっている貼り紙、、、!!通り過ぎながら眺め、二歩、三歩、四歩、そのまんま一足飛びに吸い寄せられて二人前お持ち帰りで注文!迷いなし!戻って速攻食べた!胃痛くなった!言いたくなった!18時に食べて18時45分から痛くなって、深夜1時前まで続いた!収まって来たからって、チーズかじってワイン飲んだ!美味しかった!
これを神の啓示だとか、悟りへの導きだとか感じることもできたかもしれんけど、思いっきりただただその現実に慄いてただけやった。そもそも啓示は強制力を持って内奥へ持っていかれるものやろうから、事後的にそうやった、とか相対的なものじゃないよな。絶対的。