サルトル『ボードレール』──ボードレールから遠く離れて | 山下晴代の「そして現代思想」

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サルトル『ボードレール』(1956年、人文書院刊)──ボードレールから遠く離れて

 ボードレールの詩については、彼の「実存主義」を証すために引用されているのみで、文学的鑑賞とえいては、いっさい立ち入られていない。結局、サルトルは詩音痴であり、そういう嗜好はまったくなかった。ゆえに、彼の文章からは、詩的なものさえたちのぼってこない。この論が、ジャン・ジュネに捧げられているように、サルトルの好んだものを、俗な言葉でいえば、「恐い物みたさ」(笑)であり、物の見方も、「不適切にもほどがある」(笑)のである。やぶにらみのやせっぽちの「最低ランク」の娼婦を愛し、それは黒人女への執着の前ぶれとなる。サルトルが好んで分析したがったものは、犯罪者、人生の落伍者、今生きていたら、大谷翔平の元通訳、水原一平被告について書きたがるかもしれない(笑)。要するに、そういうものとして、ボードレールを扱っている。
 一方、サルトルより20歳近く年上ではあるが、T.S.エリオットは、論理的にボードレールの文学を分析した論を書いている。今から見れば、エリオットの方が新しく、今でも通用する。それは、あえて構造主義と名乗らなくても、十分に構造的なものである。エリオットが、「ボードレールは不幸なことに、フランスではその時代理解されなかった。それは、ボードレールがその時代より進んでいたからである」というようなことを書いている。このサルトルの文章を読むと、そのことがよくわかる。
構造主義は、レヴィ・ストロースの構造的文化人類学から始まる。その萌芽は、ソシュールにある。サルトルは、ここのあたりが完全に抜けていて、「実存」などといいながら、結局は、ブルジョワ世界の性根を叩き直すことができなかった。……ボードレールから遠く離れて、そういうことを思わせる本であった。