「鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』は二度と見たくない」
NHKアナウンサーだった鈴木健二、と、風貌も精神も似ても似つかない兄、鈴木清順のもはや〈作家性〉だけになってしまったような映画、赤い色と大楠道代の、出がらしのような味も素っ気もない風貌と、原田芳雄のスタンドプレーのような映画……だったかな?
もしかして、そのあとの『陽炎座』と混同しているかもしれない……。そんな人形浄瑠璃を、人間のアレゴリーとして提出したような、いかにも日本的なあまりに日本的な映画をもう一度見ることは、生まれる前に死んでしまったような体験だ。それにくらべて『そして船はゆく』は何度もひとを迎える。ああ、そうだ、傳ちゃん、
Jerkは、黒人の俗語で、「質屋の娘とする時にゃ、出したり入れたりせにゃならぬ〜♪」という意味だから、かっこつけて、ニッポンのジジイが使ってはいけないダ。だけど、あんたが言った、
「コロナのあとに詩を書くことは野蛮である」というのは、いまになっては至言と言える。そう、たしかに野蛮だ。
ここには、jerk的響きがある。
「人物の名を語ること、それは顔を表現することである」と書くエマニュエル・レヴィナスもどうということはない哲学者だ、
既成概念を疑わず、そのなかで、あれこれ社会的な言動を吐いているだけだ。
野蛮な行為を野蛮であると認識すれば、それこそが詩を書く資格であると、ボクなんか思うわけだ、べつにトランスジェンダー志向ではないけど、ボクとか使ってみただけサ、
世の中には、いくら傑作でも、二度と見たくない映画が存在して、
それは、これまで生きて時間をもう一度生きさせられるような、
うんざりする感じなんだ。他者でも自己でもいい、
夢の構造こそ受け入れるべきだ。