【昔のレビューをもう一度】『リリーのすべて』──最も新しく知的な役者レドメイン(★5) | 山下晴代の「そして現代思想」

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『リリーのすべて』(トム・フーパー監督、2015年、原題『THE DANISH GIRL』

 2016年3月20日 22時01分

 

 ベルクソンによれば、人の心と肉体(脳髄も含む)は平行していない。おそらく、性別なるものも、合理的な思想が考え出したものだろう。仮に男性と名づけられた性が精子を持ち、女性と名づけられた性が卵子を持ち、それらの結合によってもうひとつの生命が誕生する。これは外側から認識された事実である。では内側は? 人間という生き物の内側に入ってみれば、そこには直に感じられる何かがある。海辺の光を見た時の意識、絹の下着を身につけた時の感覚、ある他者を前にしたときの感じ……。それを外から認めることはできない。人の内面とは外からの描写ではとても追いつくことができないほど微妙なものである。

 おそらく、エディ・レドメイン演じるアイナーは、肉体は、男性と呼ばれる性のようでありながら、精神はその性に見合うようにはできていなかったのだろう。これを、科学は、「性同一性障害」などと片づけているが、ベルクソンの考察はそれほど単純ではない。第一には、こうしたケースはまれなのかもしれないが、病気ではない。そうと気づかぬまま生涯を終えてしまった人々も少なくなかったかもしれない。だが、本編のアイナーは気づいてしまった。それは、たまたま男性としては繊細で美しい肉体を持って生まれたからかもしれないし、それに加えて、ゲルダという、自分がしっかりあり、どこか男性的な面を持つ女性と出会ったからかもしれない。とにかく、アイナーの感受性は繊細で、それは絵にも現れているし、妻との暮らしにも現れていたと思う。ほんとうは女性だった男性というより、繊細すぎる内面を持つ人間が、「女性」という性に感応してしまったのかもしれない。つるつるした生地の下着やドレス、華奢な靴、口紅、しぐさ、まなざし。確かに女であることは快感である。

 エディ・レドメインは、そういった「思想」を、極限まで体現していると思った。もしかしたら、監督のフーパーは、『レ・ミゼラブル』(の時に、すでにこの企画を提案したというから)でエディと出会い、その繊細な肉体から本編を思いついたのではないか? たまたまこういった本が出版されたのもしれないが、まず、エディ・レドメインの肉体なくしてはあり得なかった企画ではないか、成功しえなかった作品ではないかと思われる。

 ゲイとかレズビアンなる言葉は、性的な嗜好について世間が作った言葉である。本編とはまったく関係ない事柄だ。だから、本作は、一人の女が男を愛し、その男が消えていく過程を克明に描いた点で悲しくも感動的で、しかも、グロテスクではあり得ない作品なのだ。美しく描かれていることに文句をつけているレビュアーがいたが、これは美しい話なのだから、美しく描くしかないし、これぞエンターテインメントなのである。

 このような世界を眼に見える形にした監督もすごいが、やはりレディ・レドメインという役者は、とんでもなく新しく、知的な役者なのだと、心から魅せられてしまった。

 さらに言えば、こうした問題(具体的な生活における心と体、愛)こそが、いちばん難しい問題で、これには当然ながら、答えはない。ゆえに人は苦悩する。