『スリー・ビルボード』──映画と演劇は似て非なるもの(★) | 山下晴代の「そして現代思想」

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『スリー・ビルボード』 (マーティン・マクドナー監督、2017年、

原題『THREE BILLBOARDS OUTSIDE EBBING, MISSOURI』)

 

 私は大学は演劇科の演出専攻で、それなりに、内外の多くの舞台を観てきたが、本作を観ているうちに、どうもこれは、なにかの舞台作品ではないだろうかと思ったが、監督は、舞台の戯曲演出の人だった。本作は、「映画の脚本」ではなく、「舞台の戯曲」だと思った。両者は、なるほど、俳優が演じるものだから、同じような感じがするが、完全にべつもので、戯曲は、舞台で生身の人間が演じるので、その肉体が物語を背負うことができるので、どうしても、刻みが粗くなる。その粗さがそのまま出てしまった作品である。

 それを、フランシス・マクドーマンド、ウディ・ハレルソンなどの名優が演じれば、傑作となり得ると、監督は思ったのか? 映画というものはそういう単純なものでもなく、実は、かぎりなく繊細なもので、それが、舞台の作品向け戯曲と相容れないのである。名優の演技、知名度はかえって邪魔になり、アメリカの地方の街で起きた悲劇すらも、とってつけたように見せていく。

 実に嫌な人間がほんとうは「いいやつ」で、その変化を、サム・ロックウェルが演じてみせるが、それさえ、浮いてしまう。なにもかもが、どこかで見たような風景で、映画が与えてくれるはずの経験の豊かさはどこにも期待できず、舞台であったなら、それなりに余韻のある結末も、実に嫌な後味を残す。

 フランシス・マクドーマンドも、ウディ・ハレルソンも、すきな俳優であり、見ることが期待される俳優であったが、本作は、彼らにとって、致命的なものになってしまったかもしれない。

 主人公の主婦マクドーマンドの娘が、たとえ「悲劇」が「必要」であっても、焼かれてレイプされるという「設定」は、そうそう安易に使われるべきでない。主婦が、捜査に遅延に業を煮やし、田舎町の空き地に、広告会社に金を払って立てて見せる、広告(ビルボード)が、警察署長の名前入りの「捜査の催促」だというのは、悲劇的なしかたで娘を失った主婦の内面としては、現実的にリアルではなく、その「演劇的作為」が、逆に映画の観客をしらけさせる。