コンピュータ化という、実態も何も分からないものをやり遂げてしまった話は、驚くべき内容である。まして、現代の情報に溢れる世の中になることを、見越していたかのような圓城寺の考えは、現代でも見習うべき先見の明であると思う。


 一方で、情報のインプットが無いと意思決定が行えないという意思決定論の考え方からも、圓城寺がコンピュータの知識を得たタイミングが良かったともいえる。


 いずれにせよ、現代であっても、本当に活用できる技術なのかどうかをいつまでも議論しているのではなく、明確なビジョンを持って応用していくことが重要なことは変わりがないように、私は思う。



参考文献

杉山隆男「メディアの興亡」(1986,文藝春秋)

nikkei4946.com『うんちく日経』http://www.nikkei4946.com/unchiku/unchiku.asp

澤田善彦「印刷100年の変革」http://www.jagat.or.jp/story_memo_view.asp?StoryID=1476




西垣 通著『ウェブ社会をどう生きるか』を読んだ上でのWeb2.0の考察



 光ファイバーやADSLといったブロードバンド(高速大容量)の普及などによるITの普及は、政府の取り組みなどを通して、今やほぼ終わったと考えられる。しかし、この一連の「IT革命」と呼ばれる流れは、西垣の言う「一般ユーザーが主役となる」終点があるはずだと、私も考える。Web2.0は、一般ユーザーの参加を促した点では、非常にすばらしいものである。しかし、西垣は「米国からのウェブ2.0という波を手放しに礼賛するのではなく、その長所と短所をしっかり見定めた上で、真の本格的なIT革命実現にむけて、どういう方策をとるべきかを検討していく必要があります」と警鐘を鳴らしている。ここからは、西垣の意見を要約しつつ、考察していきたいと思う。

 この本を要約すると、次のようなことを述べている。「ウェブ礼賛論」と「バカの壁」の関連性から、沢山の情報を与えても、相手にとってまったく予想外の解釈をほどこしてしまう可能性がある。情報を生物が生きていくために必要なものとして、生命情報を広義の情報としている。この考え方は情報学における機械情報が生物情報の一部であることを指摘し、生命情報中心に変えていく必要性を見出している。

 また、2章において、「いまウェブで何が起きているか」と題して、Web2.0Web2.0企業との関係性に注目し、Web2.0の本質について、「一種のIT企業のなかの権力闘争であること」を述べている。一部の有力サイトだけで形成され、少数の意見が埋もれているこの状況は、はたして本当に「民主的で平等な集合知」と言えるのか、という問題提起を行い、この点を米国における英語中心の考え方と米国文化の側面から解釈している。

Web2.0における集合知仮説について、ビジネス優先の圧力の前では生きた人間の自由も主体性も損なわれてしまう危険性を指摘している。西垣は、人間はあたえられた状況や文脈に応じて紡ぎ出すもので、機械情報ばかり集約しても、かえってその努力の妨げになり、「真のアイデアを得るには情報は少ないほうがいい、という逆説さえ成立する」と述べている。

 論点を整理すると、コンピュータ等の機械によって得られる機械情報は、生命情報の一部に過ぎず、「生命情報」が情報学上の転回の機軸になるべきである。そしてWeb2.0は、機械情報しか取り扱えないということを指摘している。

 これらのことを踏まえて、これからは私の意見を述べたい。図書館丸ごと電子化計画についても述べているが、そこでのスタンスも含めて述べると、やはりGoogleAmazonという一部の私企業が、資本主義の原則にのっとり、「金儲けの手段」として行ったことが大きな問題点である。よって、このWeb2.0という考え方や技術自体に批判が起こるべきではないということも合わせて指摘したい。このことに関して西垣も「一種のビジネスとして成立している」という書き方をしていることから、「金儲けの手段」という理解をしているものと捕らえられる。

 Web2.0によって、情報に双方向性が生まれるきっかけになったことは言うまでもない。しかし、そのやり方が未完成であることは、2.0というバージョンを見ても分かることで、いずれ、また新たな企業が生まれてくるはずである。Windowsによる、情報の単一化が起こっているように、検索についてもGoogleの単一化が起こっても、イニシアチブを取っている限り、やむを得ないことと思われる。

 人間は、今日まで楽になることに対する順応は早かった。道具をうまく使うことによって発達してきたのである。情報技術に関しても、人間がGoogle化するのではなく、人間が道具(ツール)をうまく使っていかなくてはならない、と私は考える。