次に、コンピュータ導入時の社長となる圓城寺次郎の話をしたい。


圓城寺は、昭和41年当時、既に専務になっていた。日経内部にある経済研究室出身の社員を介して、ブリヂストン社員の鵜沢と会うことになる。鵜沢はブリヂストン社内でコンピュータ教育を行っており、圓城寺はコンピュータの話をするために、その席を設けた。当時、「コンピュータは二進法で計算する機械です」という定型句から始まっていた。例え、これを理解しても、その他の利用方法につながっていかないのである。その点、鵜沢は、文系の人間にも分かりやすく説明をし、圓城寺も理解を深めていった。後に、鵜沢は日経のコンピュータ教育の一端を担うようになる。

圓城寺はこの理解を元に、新聞にコンピュータを導入してみたらどうなるかを考えてみるようになる。




 圓城寺は、取材しても記事にならず、記者のメモで終わってしまう情報に目をつけた。例えば、一企業の情報など、国の動きに比べたら微々たる物であり、限られている紙面では削られてしまう。このような情報の蓄積を行ったらどれほどの財産になるのかと考えらのだ。


 また、ピーク時以外は止まっている輪転機が存在していることも、ムダが発生している要因だった。もちろん、ピーク時には必要となるが、それは精々3・4時間であるといわれている。この2つを使って、もう一つ新聞を作ることを圓城寺は考えたのである。そして、これを実現するためには、コンピュータの導入が必要であった。




 時を同じくして、技術部はIBMと共同で、コンピュータの可能性について調査していた。このことが圓城寺の耳に入り、翌年度の経営計画にコンピュータ導入の方針が盛り込まれることになる。





 導入の方針が決まっても、前途多難であることに間違いはなく、誰も予想し得ないことが実際に起こった。ここでは、そのうちのいくつかを紹介する。



・非公式の組織からANNECS

 コンピュータ導入へ傾く一方、実態も何も分からないものに賛成する人は多くない。まして3大誌でもない日経がなぜコンピュータ導入をやらなくてはならないのか、という疑問が社内を駆け回った。そのため、最初は正式な部門としてではなく、覆面部隊として倉庫で会議を進めていく。

整理部長だった石田はこのプロジェクトの中心人物になると共に、プロジェクト名をアネックスとつける。別館や付録という意味で、文字通りの会社のお荷物ということだった。後に、IBMの担当がAutomated Nikkei NEwspaper Composing Systemと名づけることになる。

IBMとの仮契約の段階になり、決断が迫られると、社長になっていた圓城寺は役員会の承認無しにサインをし、後ほど承認をとった。その強引さで、無理やりコンピュータ導入の道筋をつけた。



FSDとの軋轢

 コンピュータを売る側のIBMもこのプロジェクトが簡単なものではないことが分かっていた。そのため、アメリカの中枢を担う連邦システム事業部(Federal System Division)でプログラム開発を行うことにする。FSDは、アポロ計画やジェミニ計画に参加し、平気作成にも関わるなど、その技術力の高さはIBMの中でも最も高いレベルにあった。

 しかし、日本側の要求は難しいものだった。今まで、カンや経験と言ったもので説明してきた新聞製作を、アメリカ人に説明するだけでも一苦労なのである。

 それに加えて、アメリカの新聞と日本の新聞に違いがありすぎた。例えば、日本の新聞は、1ページに全て抑えようとし、アメリカの新聞は○ページへと先送りしてしまうなどという違いである。

 このような軋轢の中、メインでやってきたベンジャミンはIBMを退社してしまう。しかし、その後のフリンは、日本側の要求をできる限りのもうと努力する。



・新聞紙面をロジック化する

 新聞紙面には、見出しがあり、本文があり、写真がある。基本は縦書きだが、時に横書きになり、囲みが存在することもある。日本経済新聞も他と変わらず、この書式にルールなどなかった。ルールもなければロジックもないのである。これをどのようにして01で示すかが問題になった。

 これに関してフリンは見えない線(ベクター)の概念を導入した。見えない線の上に、色々な文字や写真が乗っかっていると考えたのだ。これにより、自由なレイアウトができるようになった。これは、オーダーメードの「製品」を作り出すことを可能にした。

 

 このような流れの中で、徐々に形が見えてくるようになり、コンピュータ導入は軌道に乗ることになる。




 アメリカでの開発を終え、日本で実用化する段階に入った。実用化に漕ぎ着けるまでには、まだ時間がかかる。




IBM360の限界

 ここまで、順調に見えたプログラムも、いざテストしてみると、そのスピードの遅さがネックになってきた。一つのコラム記事を書くのに20分もかかってしまうのである。これでは、「20分以内にレイアウトができる」と豪語したのが嘘になってしまう。

 しかし、石田はテスト前からIBM360の性能に疑問を持っていた。また、370が出ることも知っていた。なぜ、初めから言わなかったのか。石田は経費が増えることになることで、打ち切られるのが怖かったのである。もし、1億もの経費がかさむことが分かれば、たちまち、社内は反対の流れになってしまう。そのため、わざと370を後から勧めたのだった。




・朝日との競争

 IBMにプログラムを依頼していたのは、日経だけではなかった。朝日もまた発注していたのである。昭和47年の年明け早々に、朝日がコンピュータの導入を行うという情報が、日経に入った。11月の役員会で技術の完成を示した日経は、なんとしても一番に実用化に踏み切りたかった。

 12月26日、ついに日経はコンピュータ導入を果たす。昭和42年に始まったこのコンピュータ導入のプロジェクト、アネックス・プロジェクトは5年の時間を経て、実を結んだのである。




・産業新聞の全面導入へ

 IBM370の導入により、当初週1ページだったコンピュータ紙面は、7ヵ月後には週51ページに増えていた。1ページ作るのに、活字では2時間から3時間かかっていたものが、アネックスでは1分。圧倒的な早さだった。昭和48年には一日平均24ページにまで活用されるようになる。

 この最中の昭和48年10月1日、圓城寺の考えてきた第二の新聞「日経産業新聞」が発刊される。この新聞は、最後まで反対していた人間を伏せて、オールコンピュータ紙面で出された。

 そして、昭和53年3月12日 午前1時15分。溶解ガマの火は落とされ、活字の時代は終焉を迎えた。




・圓城寺の考え

 圓城寺は次のような構想を描いていた。新聞『を』つくっている新聞社から新聞『も』つくっている新聞社へと日経を変えること。そして、蓄積したデータをデータバンクとして商品化することである。

 現在、ANNECSは、カラー紙面も出せる、EDISON21システムへと移行し、データバンク事業は、日経テレコン21として実用化を果たしている。圓城寺がコンピュータ導入の意思決定をしなければ、今でも2番手を追走し、情報戦線で大きな遅れを取っていただろうと考えられる。



 このように、コンピュータ化を果たすことで、日経は情報を商品化することができたのである。