まだまだ若い頃、そして同居する人もいた頃。
いつものように地下鉄に乗っていると、不意に、それこそ発病したかのように、さみしくてさみしくて仕方がなくなった。
それはもう、ほんとに病気じゃないかと思うほどで、車両のドアに立ちながらじっと外を見る。
外は当然暗闇で、自分の顔だけが映る。

そのさみしさは、震えがくるほどで、いったいなんでこんなことがと、毎回思うのだ。
思って、じゃあこれからどこかへ行って誰かに会おうかと思うが、家に帰れば人もいるのだ。
こんなことが年に一回か二回あった。
おそろしい時間だった。


今、一人で暮らしている。
親の世話をしていても、帰れる時間が近づくと嬉しくて仕方ない。
誰もいない部屋のドアを開けると、ふうううと安心して深い息を吐く。

もう、電車でさみしくてさみしくてなんてことも、ない。
さみしさは、人といる時のほうが感じる。
いや、それとて、若い日のウロウロするようなさみしさとは違う。

いったい、あのさみしさはなんだったんだろう。

シャンソンには孤独をテーマにしたものが多い。
バルバラの「孤独」は、美しいため息のように心を浸し、ムスタキの「私の孤独」は、深いあきらめのあとの微笑みのよう。
「もう一人じゃない、孤独と二人だから」と歌われる。


そうか孤独と仲良しになれば、もうさみしくないのだ。
さみしくないのは、孤独と友達になった証拠だ。

そんなことが、なんだか腑に落ちてきた。
孤独と友達になれないうちは、どうにもつらいことだが、なってしまえばこっちのもの。
なるほどねえと、いまさらに頷いてしまう。

いや待てよ。
これは、これからのさまざまな別れへの準備、孤独のレッスンかもしれない。
時間をかけた念入りなレッスンかもしれないなあ。