東京もそうだったが、大阪も。

 

デビュー35周年コンサート、などと冠したものの、まったくそんな感じがない。

 

 

前半は「デラシネ」中心。

後半にオリジナルとシャンソン。

 

まったく振り返ってないじゃん的なコンサートだった。

 

 

 

それでも。

 

お客さまは、熱い想いを寄せてくださった。と思う。勝手に思う。

 

 

 

昔から「ごった煮歌手」になりたいと思っていた。

 

ごった煮ではあっても、それぞれに自分の世界観やら価値観やらを持つ、ある意味メンドクサイ歌手でありたいと思っていた。

 

 

シャンソンでも歌謡曲でもオリジナルでも。

古い歌でも新しい歌でも。

外国産でも国産でも。

 

 

 

そんな気持ちをもって唄ってきて、はたしてそれが今、うまくいってるのかどうか。それはわからない。

 

 

 

ただわかったことは。

歌は人生そのものだなあということだ。

 

こういうと、なんだそんな当たり前じゃんといわれそうだけど。

 

 

どうやって生きていくのか、行き先の決まった車に乗って、ただ走っていく。

 

なにが起こるのかわからない。

スリリングな人生。

 

 

そのたびアタフタしながら、あれこれ考え、もう歌どこじゃないと焦り。

 

でもそんなことすべてが歌になる。

 

 

なんだかなあ、と思う。

こんなのアリかなあと思う。

 

 

でもまあ。

 

こうして唄っていこうと思う。

 

 

 

また、新たに挑戦せねばならない歌も出てきました。

 

 

次から次へ。

でも、そのどれか一つでも、聴いてくださる皆さまの胸に寄り添えますよう。

 

シンドイ人生の友達になれますよう。

 

 

 

昨日の大阪。

寒い中お出かけくださった皆さま、ありがとうございました。

 

かなりポンコツになってはきましたが、まだまだ走ります、私。

 

こうなったら、いっそ「ごった煮歌手」をきわめたいと思っています。

 

 

絶対虚無なんかに負けない

テーマ:
これまで、いま、これから。

過去現在未来。


そんな道筋のことを、熊野で教えられてきたのに、朝の東京駅の雑踏で思い出した。


そういえば、私は、このところ、この道筋を見ない考えないようにしていた。


手をつなぐ若い男女、足元を走り回る子供たち、微妙な距離で歩く年配者。


一人の人間を、この道筋で見ない。
今、ここにある人は、ただそこにある人。


なんと言ったらいいんだろう。

道筋で見てしまうと、悲しくなるのだ。
ああ、こんなふうに生まれて年老いて、と、大きな虚しさが襲ってくる。



前はこんなだった、こんなこともできた、と今目の前の老親を見ていて感じてしまう悲しさ虚しさ。


ある時、そうだ、そういう風に考えないようにしようと思ったのだった。


いま、目の前にいる人がすべて。
その前も、その後も考えない。


そうすると、なんだか気持ちが穏やかになった。



生まれて死ぬこと。
失うことが生きていくこと。
そんな絶対虚無から、救われる気持ちがした。




世界の、宇宙の、時空の、その中心と一人一人の人間が繋がっている。

そこには、これまでもこれからもない。


ただ、今そこにあるという、それだけ。





雑踏の東京駅から、大阪に向かっている。

私は、昨日の私でもなく、明日の私でもない。
ただ今日の、今の私だ。


なので、今日の私が今日の歌を唄います。



はじめての森ノ宮ピロティーホール。
よろしければお越しください。

すっかり熊野にはまる。

テーマ:

どこどこのなになに。

なになにがどうしてどうなってこうなった。

 

 

その類のことが、どうも苦手だ。

 

つまり歴史的な話とか由来とか、名前とか。

知っているほうがだんぜん良いと思われる事々が、覚えられない。

 

 

そういうニンゲンなので、正直熊野に行くのが不安だった。

 

 

なんたって世界遺産で、どこどこのなになにだらけだ。

 

 

自分の無知と能力不足が白日にさらされる。

 

 

でも。

 

でも。

 

熊野は優しかった。

 

そして二日間にわたっておじゃました熊野本宮大社は、寛容だった。

 

 

 

なんたって「神仏習合」なのだ。

神さまも仏さまも、一緒に仲良くおられる稀な場所なのだ。

 

 

 

 

「ペットも家族の一員です。どうぞお入りください」

そんな注意書き看板が入り口にある。

 

 

もちろん、他の参拝者に迷惑になることは禁止だけど、なんだろうこの寛容。

 

 

すべてが万事こういう優しさ、寛容。

 

 

まあ、人は生きてるだけでタイヘンですからねえ、いいじゃないですか、あの世に行くまで、こうして一緒になんのかんのいわず、赦し合って生きていきましょう。

 

 

そんな感じなのだった。

 

 

 

そこには、よくある儀式的な形、そこからくる不寛容がみじんもない。

 

 

オッケーオッケー、ウェルカム。

 

 

そしてこの寛容さは、今回お世話になって和歌山のかたたちにも通じていて、なんだか皆さんユルイ。

 

いや、ユルイというのは失礼だ、許容量が大きい。

 

 

 

やはり紀州の殿様のお国だけのことはある、泰然自若としている。

 

 

 

熊野はなんだかコワい。敷居が高い。

 

そんな私の危惧は、それこそ風のように吹き飛ばされ、もちろん、奥が深い場所であるけど、一人一人の深さに合わせて、その姿をかえてくれる寛容さを実感したのだった。

 

 

 

浅い人には浅いなり、深い人には深いなり、求める側に相応して形を変えてくれる熊野。

 

 

すっかりはまってしまった。

 

 

またご縁があれば、今度は、歩こう。

ひたすら歩いて、神さまや仏さま、つまり「自然」と対話しよう。

 

 

自然。これこそ熊野の教えだとわかった。

 

自然の中で自分の歩むべき道を探す。

救うのは誰でもない、ほんとは自分自身なのだ。

自分の決意なのだ。

 

 

 

目からウロコばかりの今回の熊野。

 

なんて良い心持ちになれたことだろう。

 

 

 

で。

ついでに、といってはなんだけど、そんな中「デラシネ」がレコード大賞の優秀アルバム賞の一つに選ばれたとの知らせ。

 

熊野で聞いたのも何かのご縁。

 

 

関わってくださった、応援してくださった皆さまへの感謝で胸がいっぱいになる。

 

 

 

そして感謝といえば。

 

熊野ロケでお世話になった皆さま、本当にありがとうございました。

 

 

私のような粗忽ものを寛容許容してくださったこと、ココロからお礼を申し上げます。

 

 

 

ああ、熊野。

また行きたいなあ。