このアメブロを書こうとする時、自分のホームから入るのだけど、その時に今日の運勢のようなものが出てくる。
星占いで、1位から12位まであるわけだけど、これを私はまったく気にしない。
長く生きていると、良いことも悪いことも、その通りではないことを知ってしまう。

なので、12位でガッカリすることもなければ、1位でやる気になることも、ない。
おしなべて日々は、順位と関係なく過ぎる。

ところが、星占いの専門家と知り合うことが、ちょうど45歳の頃にあった。
ホロスコープという統計学に基づく理論(細木数子さんもそう言ってたけど)で、生まれた日の場所と時間が正確であればあるほど、結果は正しく出てくるらしい。

で、見ていただいたのだけど、その時に言われたことは、ほぼその後、その通りになった。
近々の事では、両親との縁が長く深いことと、二人の亡くなる時は近く、あっという間に見送ることになるというのも、全くその通りになった。

ただ一つ、困ったことを言われた。
「クミコさんて、お金がたまりませんねえ」と半ば苦笑いのように言われた言葉で、まだ若かった私は気にも留めなかった。
でも、時々、これがそういうことかと思う事ごとに出会うたび、それを思い出す。

でも、仕方がない。
それもこれもこの世でのご縁なのだろう。

良いこともあればそうでないこともある。
思いがけないようなことも起きる。
今は、それを悪いことと言わないようにしようと思う。
何が良いことか悪いことか、そんなもの、きっとわかりはしない。

この世での時間は短いもんね、でも地球は回っていると、目の前の地球儀を見ながら自分に言い聞かせる。
大きな宅急便が届くと、嬉しさより恐怖が先立つようになった。
段ボールを開ける、その割れ目をしっかりふさいでいる頑丈なガムテープを取る、そのあたりからすでにふうふうと息があがっている。
大きな箱の場合、中身がガラガラで、その隙間を埋めている紙であったり空気の入ったビニールであったり(これ、石油由来じゃなかろうか)が、後から後から出てきて、畳んだり、穴をプスプス開けてしぼめたり、とその作業で、また一層息は上がる。
そして、それらを分別ゴミにして、最後に段ボールを懸命に畳み、ガムテを貼り、古紙回収の日を待つ。
ああ、すっかり疲れてしまった。

なんてえこったい、とわが身に呆れるが、もう仕方がないのかも知れない。
もっとカラダを鍛えねばとちょっとは思うが、きっとそういうことじゃないと思うようにもなった。
うまい具合に衰え、うまい具合にフェイドアウトする、先人を思うと、消え方こそが鍵のようだ。

今のところ、寝る前のストレッチと、スクワットで、せいぜい5分ほど。
それでも、やるとやらないでは違う。
カラダというのは、うまくできている。
縮んだ筋肉を伸ばしてあげる、ちょっとだけ筋力を使う、それでカラダが初期設定に戻る。
カラダが喜んだ気になる。

まあ、気休めと言ったらそれまでだが、今の私には、このくらいの運動がちょうどいいらしい。
映画館のトイレに、そこで上映する各映画へのコメントが貼ってある。
私が入った個室にはイギリス文学者のかたのものが。
 『ケン・ローチ監督は、冷笑と分断に苦しむ私たちの社会に、この世には善意というものがあり、それが社会をつなぎとめているという、祈りのような「最後のメッセージ」を届けてくれる』

上映前に トイレに入ったのに、もうすでに胸がいっぱいになって、ああ、来てよかったと思った。

ケン・ローチ監督は、以前「わたしは、ダニエル・ブレイク」という作品を見た。
フードバンクのような場所で、与えられた(たしか)コンビーフ缶を、貪るように食べる女性と子供のシーンや、だんだんと追い詰められるように社会の下層へ落ちていってしまう主人公が、自分の名前は番号でも記号でもないダニエル・ブレイクだと叫ぶシーンに、どうにもならないほど心が揺さぶられた。

今回の作品が、最後になるかもしれないと老いた監督は言うが、そんなの嫌だなあと思う。
社会と世界をあったかい目で見つめる作品を、こんなに冷たい理不尽な世界だからこそ、もっと撮って欲しいなあと思う。

イギリスの衰退した地方に、シリアからの移民がやってくる、そこから話は始まるが、この状況は、今や世界中同じだ。
国へ帰れと、そこに住む人たちは罵り、帰る国があるなら帰りたいと、移民の人たちは泣く。

これが今の世界のスタンダードになってしまった。
世界中のたった一桁の人が世界の富を握り、毎日の食事もできない人たちは、増えていく。
戦いは戦いを招き、人の心には固い扉が下される。

人の善意。
善意か。
まるで初めて聞くように、答え合わせをしたように、この善意という言葉が胸にリフレインされる。

「オールド・オーク」
これが昨日見た映画の名前。
尊厳に満ちた古い大木がすっくと立っているような、そんな映画だった。