母親の入浴の手伝いは、だんだん上手くなってきた。
もともと湯槽に浸かりたいという人ではなかったことはラッキーだった。

湯槽の手伝いは、私のような素人では難しい。
介護者のかたに教えていただいた腰ベルトをしても、今でさえ、難儀するくらいだからとても無理。

自分より体重の重い人をお湯から立たせるなど、いくらプロとはいえ、どれだけの負担になるのだろうと、父親のホームでお風呂担当をしてくれるスタッフには、もう感謝と尊敬でいっぱいになる。

で、うちの母親はシャワーのみ。
カラダ全体を泡ソープで手早く洗う。
でも、あまり手早いと、それはそれでバスタイムの喜びがなくなるなあと気づき、自分でも気持ちの良いと思えるくらいの時間をかけて、あちこちにシャワーをかける。
いろんな話をしながら、こうして入浴時間が過ぎる。

その前までちょっと気まずいことがあっても、裸会話で、オリのようなモノはどんどん流される。
裸の母親を触って洗っているうち、どちらの心も裸になっている。

この人のカラダから生まれたのだと、当たり前のことに胸を打たれたりする。
そうか、こういうことかと、この世界に生んだ人の世話をしながら、この世の大きな疑問がほどけたような気になる。

老いていけばいくほど、そのカラダを愛おしく思う。
ホームの父親を抱きしめるのも、母親の世話をするのも、そしてこれからもっと増えていくだろう、その老いたカラダとの対話も、全部、私がこの世ですべきこと、したいことなんだろうと思える。

で、全部終えた時、私のカラダを誰が受け取ってくれるかはわからない。
でも、いい。
それが看護士さんでも介護士さんでも、あるいは誰もいなくても、いい。

その覚悟をするための「今」なのだと思っているが、どうも強がりに聞こえてしまうんだなあ。