ホームで会うなり、父親は言う。
「ああ良かった、もう帰ろうかと思うんだ」
これは、入った時からほとんど変わらない言葉だ。

ただ、その意味合いが少しずつ変わっている。
今は、どこが「帰る場所」なのか、おぼろになっている。

昨日は、一階のホールから二階の自室、そして食堂へと、落ち着きなく居る場所が変わった。
自室にいても、ここがどこかという。
どこにいてもここはどこか、どこへ行ったらいいのかと言う。
どこにいても、次の場所を探す。
居るべき場所は蜃気楼のようだ。

それが気の毒でならない。
永久に砂漠を彷徨う旅人のようだ。

父親の手を取り、肩を抱いても、その心はいつも彷徨っている。
誰がそばにいても、心は彷徨う。
これが歳をとることなのか。

長い旅をしてきて、最後にまたこんな旅をする。
最後の旅は、果てない。ただ果てない。
蜃気楼を探す旅だもの。


テレビでは不老長寿の方法が見つかりそうなどと言っているが、そんなもんいらない。
鳥や草と同じように、宇宙の、自然の法に従って、生きて死んでいきたい。
鳥や草と同じ一つの命として、ただ生きて死んでいきたい。
五月の美しい朝、そんなこと思う。