母親と一緒に父親のホームに行く。
二人をなるべく会わせてあげたいが、母親も相当な歳なので、どうも腰が重い。
腰も重いが気持ちも重いのだろう。

二人で手を握り合いながら、ほとんど通じ合わない会話をしていても、それはそれで幸せなのだ。
母親は娘の私と違って、真正面から会話をしようとする。
ボケた父親の、訳のわからない言葉を訂正したりして、しかも、双方とも耳が遠いので、もはや何が何やら。
それでも、握り合う手は幸せの象徴だ。

帰ってくると、母親はたいてい暗く小さくなる。
そしてボソッと呟くように私に尋ねる。
「ボケなかったらどうだったんだろうね」
またこの質問かと、ちょっぴり心が痛みながらも、それはそれで今より大変なことになっていると(毎回)答える。
超高齢の二人が、階段のある一軒家で暮らすことがどれだけ難しいか、それを支えるには、ヘルパーさんを何人かつけなくてはならないこと、娘の私一人でできることはもう限られていること、そして、私には私の人生があること。

「ボケてくれたのは、神様のおかげかもしれないよ」
ボケのおかげで、父親の時間は宇宙になった。
伸び縮みする時空の渦になった。
ご飯を食べたことも、お風呂に入れてもらっていることも水の流れのようにまたたく間に消えていく、だから毎回初めて、その度ごとの喜び。
そしてもうこの世にはいない兄弟たちを思い、私と母親の顔を見て嬉しがる。

そんな父親が愛おしく、会うたび、頬にチューをする。
何回もする。
こんなこと、思えば私が小さかった頃以来だ。
父親はでも何となく嬉しそうに目を閉じている。
ここでも時空は飛んでいる。
時計が巻き戻ったように飛んでいる。

父親の指と絡めた母親の爪が、薄いピンク色に輝く。
以前私があげたマニュキュアだが、父親に会う前日、自分のぎこちない手で塗ったもの。
桜の花のようだね。母さん。