コウジマオオシ。
変換すると、好事魔多し。

今回の事件の前に、大谷さんを見ていてこの言葉が浮かんでいた。
天に二物も三物も与えられ、それ以上に、自身の努力や性格の良さも加わり、はたまたこれ以上ないと思うほどの伴侶も得て、三十代を迎えるオトコの顔は、いよいよ輝いている。
怪我の克服だけが影の部分といっていいが、それさえ、この人は抜けていくだろう。
だからよけい、この「好事魔多し」が浮かんできた。

まさか、こういうことになるとは思いもしなかった。
が、ああこういうことがあるのだと思った。
人生は、やはりうまくいかないモノなのだ。
誰にとっても、うまくいかないモノなのだ。
それが人生なのだ。

思えば、私が歌っている歌たちも、うまくいかない人生があってこそ生まれたもの。
後悔、焦燥、挫折、そんな下地の元に生まれた歌ばかりだ。
レパートリー「広い河の岸辺」の三番の歌詞に。
「沈みかたも泳ぎかたも知らないこの私」
沈むゆく小舟で、主人公がこのことに気づく場面だ。
この部分を歌う時、いつも目が熱くなる。

でも、捨て身になれば浮かぶ。
沈んでも人は浮かんでくる。
ドッコイ生きてるのだ。
テヤンデエなのだ。
デエジョブだあなのだ。