椅子に座る、これがどれほど奥深いことか、腰や背中や脚がそれぞれに弱くなってくる歳になるとよくわかる。

この頃は街角でも、小洒落た、いかにもデザイナーズぽいベンチが置いてあったりする。
今朝SNSで見た写真には、木のアーチ型で、若い人でもどう座っていいかわからない駅前のベンチが。老人がちょこっと一休みなどしようものならひっくり返るか、まず脚とお尻の位置さえ定まらなそうなシロモノ。

数年前に、夜、バス停のベンチに座っていて邪魔だと殺されてしまったホームレス女性の事件など、そのベンチのあまりの小ささに、余計悲しみが募った。
そのバス停を、先月通りかかったのだけど、それはベンチと言っていいのかさえわからない、文字通りただの「腰掛け」だった。しかも間に仕切りがある。
私と大して歳も違わない、役者を目指し上京してきた被害者の女性のことを思い、そのベンチとも呼べない椅子に胸がつまった。

日比谷公園のベンチのいくつかが取り除かれたそうだ。
シャンソンの「ベンチの恋人たち」という歌そのままの、いかにも恋人が肩を寄せ合えるようなベンチだった。
そういえば、大学生の頃、私もそのベンチでボーイフレンドと並んでいて、彼が「良いところに連れて行ってあげる」と連れて行かれた場所が「銀巴里」だった。

ベンチには、いろんな人の思い出が残されている。
ここに、しばし座ってくつろいでください、あるいは、ちょっとの間でも、疲れを取ってください、それがベンチなのだろう。
誰にもあったかい場所。

それが、座る人を拒むものに変わってしまうなど、思いもしなかった。
ここで長く座らないでくださいね、と、聞こえて来るようなベンチばかり。
そういうベンチは座るのも難しいので、当然、弱い立場の人には向かない。
心も体も弱った人に、いっときの慰めすら与えない。

生きにくい世の中になってしまったなあ。
愛を囁く恋人たちのベンチは、もう遠い夢なのかなあ。