静謐。せいひつ。
普段、この言葉を使うことほとんどないが、好きな言葉。

林部智史さんと、昨日もご一緒した。
先だって、大阪の「あの素晴らしい歌をもう一度」で、久しぶりにお会いしたが、林部さんがずいぶんと立派になられた気がした。
自信と落ち着きが内側に満ちている。

そして昨日。
間近でオリジナル曲を聴く。
こういう「間」のある歌を聴くのは久しぶりだった。
歌い手は、どうしても間を詰めたくなるもので、歌い込みたくなる。攻めにいきたくなる。

林部さんの歌われた歌は短いけれど、言葉の一つ一つが、羽根が生えたように、空中に放たれる。
目を閉じて聴く。
いい歌だなあ、いい声だなあと思う。

以前ご一緒した時は、まだ三十歳前だったかもしれない。
それが今は30台真ん中、それでもまだまだ若い。
自分のその頃を思うと、顔が赤くなるような若さ。
林部さんの歌は、若さの脆さとはかなさを内包する。
その向こうに、滅びゆくものの存在も見せてくれる。
これがいい。
語弊があるかも知れないが、こういった歌はシャンソン的でもある。
いまどきの若者には、なかなか理解されにくいものかもしれない。
でも、若者にしか表せない、それこそ束の間の春のような歌はある。
それを林部さんは歌える。歌う。

帰宅してから、小椋佳さんが林部さんに作った歌を聴いた。
人生の闇を歌う歌を、この若者に託した小椋さんの気持ちがわかる気がした。
(余談だが、その昔、私にも書いて下さったものがあり、それも人の病の部分の歌だった。
その頃の私にはとても抱えきれる歌ではなく、断念した覚えがある)

これから林部さんはどうなっていくのだろう。
ボサノバのリズムでも、その儚さを日本語で歌える、そして人の脆さも歌える歌い手として、林部さんのこれからを見たい、聴きたい。
切なく美しい歌に触れたい。
静謐な歌に触れたい。