今、この時にも飢えて死んでゆく命があるというのに、弁当の好みのことなど言っていていいのか。
そのあたりの心苦しさはあるのだ。
あるのだが、書いてしまう。

九分割弁当。
フタを開けると、九つに分割されて、そこにご飯やおかずが入っている弁当。
これが苦手だ。
これで美味しかったという経験がない。

九つに分割するというのは、もはや弁当ではない、と私は思う。
元々弁当というのは、外に出て行く家族のために、お母さんやおばあちゃんが、ご飯を主にして残り物や、卵焼きなど簡単に用意できるもので、こっちゃり作ったものだ。
それは決して小洒落てなどいない。
具の入ったおにぎりだけでも、立派な弁当になる。

人の手の温もりが入ったもの、それが弁当。
時に、ご飯とおかずの境界線がぐちゃぐちゃになっていても、それはそれで美味しい。
食べ物に境界はない。
それじゃあ売り物にはならんという市販弁当でも、仕切りは最小限。
ご飯とおかずが尊重し合って一つの箱に収まっている。

そこへ、九分割弁当が現れた。
出されたものをいただくのは、相手にも食べ物にも礼儀だと思うが、先だっては、見ただけで食欲が失せた。
ちょっと箸をつけると、思っていた通り、不味い。
九分割されたご飯もおかずも、お互いに関連性がなく成立するので、本来の弁当の醍醐味がない。
どれも、とびきり美味いならまだしも、そうでないなら、不味いものはより不味くなる。
ご飯とおかずが協力してこそ、共存してこそ、より美味いのが弁当だ。
そこそこな味でも、みんな一緒くたになっているから、まだ食べられる。

私は、この九分割弁当は、弁当業界の名折れだと思う。
志を失っていると思う。
ご飯とおかずを、どう並べて食べてもらうかという根本を放棄している。

そういう意味で言うと、弁松という昔ながらの弁当屋さんのチラシ広告に感じ入った。
「味が濃いというお客さまもいらっしゃいますが、これが当店の昔からの味です」
というような但し書きがひっそりと。
これが江戸前なんだよという、誇りが見える。
あるいは、横浜のシウマイ弁当もしかり。
弁当が小洒落ててどうすんだよ的な、力強さが美味い。

今日は久しぶりの収録現場。
ここの弁当は、いつも本当に美味い。
それが楽しみで出かけるのだ。
あ、もちろん歌も。