最近は、母親を妖怪と呼んでいる。
老いからくる勘違いや、カラダの不自由など、それらすべてを笑い飛ばせる言葉が、この「妖怪」だ。

もう嫌になっちゃうわねえ、と自分の失敗や有り様にしょげる母親を、だってしょうがないよ妖怪なんだからと励ますと笑う。
二人とも笑う。

でも、老人は誰でも妖怪に近くなっていくと、最近はつくづく思う。
これまで、尊敬する大先輩の方々を、畏敬を込めて呼んでいた言葉だが、妖怪はそこだけにとどまらない気がしてきた。
生きとし生けるものが、長くこの世にあって、だんだんに変化していく。ああと驚いたり嘆いたり悲しんだりする家族を救う言葉でもあるなあと思う。

昨日はホームの父親を訪ねたが、ああ、そうか父親ももう妖怪なのだとわかった。
日替わりで変わる、彼の悩みや不安を、その度解きほぐすように聞き励ましているのだけど、そうだった、父親ももう妖怪になっているのだった。
そう思うと、気が楽になる。
誰が悪いわけでもない、ただ老いのせいだ。
するってえと、老いは妖怪、妖術のようで、もはや手に負えない。
なんか可笑しくて、父親がもっともっと可愛くなる。
母親も、もっともっと可愛くなる。

なんとも説明のできないことを、水木しげるさんは、妖怪と名づけ、それらに存在価値を与えた。
誇らしい存在とした。
水木さんご自身、そういえば、晩年は妖怪の長老のようだったなあ。
目指せ、妖怪。

助けられ励まされ笑わされ、今日もまた妖怪と生きる。
そのうち、私もだんだんに妖怪になっていく。
ああ、楽しい。