東京の有明。
大きなスポーツ施設が並び、最近はタワマンも次々に建つ地域。
そこに防災公園があって、その中に「そなエリア」がある。
妙な名前だと思ったら、それが「備える」に掛けた言葉だと入って知った。

地震体験コーナーもあり、昨日は雨模様の中、けっこうな人がいる。
能登地震の影響もあるのだろうか、関心が高い。

そこで小さな講演会があった。
石巻から来られた鈴木ご夫妻。
お子さん二人を津波でなくされている。
教員、子供の74名が命を落とした大川小学校。
地震後、校庭で50分あまり留まり、やっと歩き始めた時、大きな津波が押し寄せ、多くの命を奪っていった悲劇の小学校。

この50分の経過を、鈴木さんは、手作りの大きな表にまとめ、ホワイトボードに貼り付け、話を進める。
でも、時々お母さんの実穂さんの声が詰まる。
13年経っても、悲しみが癒えることはないのだ。
でも、なぜ、50分もの間逃げることもできず、校庭に止まらねばならなかったのか、その憤りが伝わる。
やっと冷静に語れるようになった今だから、よけい伝わる。

大川小学校と対比して、隣に位置する南三陸の戸倉小学校が出てくる。
地震と同時に、校長の指示のもと高台に逃げ、そこからまたさらに上へと逃げ、全員無事だった小学校。
大川小学校には裏山があった。
そこは、普段からシイタケ栽培などで子供たちも行き来していた場所。なぜそこに逃げなかったのか。

昨年、私はその場所にうかがったが、どうしてどうしての思いが湧いた。
なんでなんで、どうして。
そこを案内してくれたのが、今回講師をされた鈴木実穂さんで、その時まで話をすることも出来なかったという。
大きすぎる悲しみと憤りは、ご夫妻から言葉を奪った。

でも、今、こういう時期に口を開かれたこと。
タイトルが「はなちゃんとけんとくんのおでかけ」。
今やっと、二人のお子さんと一緒に外へ出かけ言葉を発する、その勇気を持てたということなのだろう。

鈴木さんご夫妻は、いろいろな示唆を与えてくれた。
地震の多い土地だから、十年分の食料は用意していたのです、でも、津波は全部奪ってしまったと、跡形もないご自宅の写真を見せてくれた時には、ああ、これが自然災害なのだと力が抜けた。
何をどうしても、ニンゲンの予想など遥かに及ばないことがある。いやそういうことばかり。

じゃあ、どうしたらいい。
飲み込めない塊をそのまま、母親の家に向かった。
夕食の用意をしながら、私にできることってなんだろうと思った。