父さんは確かにボケてはいるが、時々、いや、しょっちゅう哲学的なことを尋ねてくる。

昨日も面会に行くと。
「もう何もすることがないんだよ。こうして何もできないまま死ぬのを待つのかなあ。どうしたらいいんだろう」
と言う。

私は、時々こういう深淵を覗くような話のたび、背筋を伸ばす気持ちになる。
そうして、きちんと答えねばならないと思う。

「父さんはね、これまでたくさん働いてきたでしょ、だから、もうそんなに働かなくてもいいんだよ。何かするとなると足も動かなくなってきてるから疲れるでしょ」
と静かに話すうち、、父親はだんだん落ち着いてくる。
うんうんそうだそうだと頷くようになる。
そうだなあ、疲れるもんなあと、ポッソリと言うようになる。

何もすることがない、何もできることがない。
このことが、私の胸に突き刺さる。
これを老いというのか。

今日用事があることを、教養。
今日行くとこがあることを、教育。
人にはその二つが必要だと聞いた。
語呂合わせのような言葉だが、なるほどと思う。

でも、それを追い越して人は老いていく。
時の歩みは、残酷なほど速い。
今日「用事も、行く」とこもなくなった時にこそ、どうしたらいいのか。

どうしたらいい、と道に迷ったように訴える父親を抱き抱えるように、ポンポンと静かにその痩せた背中を叩きながら話す。
耳が遠いので、その耳の中に言葉を流し込むように話す。
きっとこういうことなのだと、最近は思う。
人が人を支えるのは、人の温もりなのだろう。
手に触れ、背中に触れ、脚に触れ、撫でたりさすったりすること。
それが、人を安心させる何よりの手段だ。

人の一生を先に歩く父さん母さんから、教えられることは、どんどん増えている。
こうしてボンヤリと、長い長い人の道が、私にも見えてきているんだなあ。