馬が走るのを見るのが好き。
と、母親が言うので、たいていの日曜は競馬中継を見る。
二人で見る。
娘を午年に産んだせいか。いやいや。

おとといはダービー。
武豊が久しぶりに勝って、ユタカコールを聞いたのは、もう去年のことか。
時の経つのは早い。

2歳馬もいるのねえ、と母親が言う。
ニンゲンの2歳などといったら、まだ赤ちゃんだ。
それが馬ときたら、もう一丁前に走り出しレースに出る。
なんだか可哀想だ。
好きで走ってんじゃないのと母親が言うので、強く否定する。
好きでレースで走る馬などいない。
ニンゲンの金儲けのため、ただただ走らされているだけだ。
競走馬になど、なりたくてなった馬などいない。

走れなくなったら馬肉だもんね。と、身も蓋もないことを話しながらレースを見る。
スタート直後、落馬した騎手がいる。
でも、馬はただ走る。
背中に誰も乗せない馬は、みんなについて走る。
その姿は、自由ではなく哀れに見えて、競走馬の宿命を感じてしまう。

で、勝負が終わったのだが、どうも雰囲気がおかしい。
みんなが息を呑んでいるような気配。
すると、優勝馬の映像の隙間に、倒れている馬が。
なんだこれ。
なんだこれ。

それでも、テレビではこのことに触れない。
何もなかったかのように、いつものように競馬中継が終わる。

後でわかった。
二番人気の馬が、遅れてゴールした後、騎手を降ろし、そのままふらふらと倒れた、そして死んだのだった。
その映像をネットで見て、ああと胸が苦しくなった。

これが競走馬なのだ。
楽しんで走ることなどなく、ニンゲンのために走り死んでいく。
生まれて2歳、3歳で人生、いや馬生のピークを迎えてしまう競走馬たち。

馬から降りた騎手が、馬を撫でる。
倒れた馬を撫でる。
騎手の人生は、まだ続く。
毎週毎週、馬の背で生きる。

そして。午年生まれの私は、なんということか肉の中で馬肉が一番好きなのだ。
ごめんなさい。