40才を少し越えるまで、私はピアノの弾き語りという仕事でメシを食っていた。
カッコつけた言い方だけど、一番大切な「歌」というものは、そんなに日常で唄うものではないのだと思っていた。
だから弾き語りはちょうどアンバイが良かった。
そこでは、当たり障りのない英語の歌や、ポロポロピアノを弾くだけで、時をやり過ごした。

その店が日本橋三越前にあった「カサ・デ・フローラ」。
スペイン語で「花の家」ってとこか。
(ちなみにうちの事務所は「プエルタ・デル・ソル」これは「太陽の門」)

ここには辞めたり戻ったりと通算10年ほどいた。
ステーキ屋さんで、鉄板コーナーとバーコーナーのある、なかなか洒落た店だった。

私は、肝心のピアノを弾くのもいやになって、ママ気取りでレジをしたり、コーヒーを運んだり、ただぼおっと外を眺めたりしていた。
これから湾岸の処理場に運ばれる牛を乗せたトラックが店の前に止まったこともあった。
ステーキの匂いにひくひくと鼻を動かす、その牛を見た時、背中を不条理が走った。

夏の最中、ジャンボ飛行機が行方不明になったニュースもここで聞いた。
それに大好きな九ちゃんが乗っていたことも。
その夜の店の空気は、写真のように、私の脳にはっきりと刻まれた。


ここを辞めるとき。
社長がお餞別をくれた。
封筒に20万円入っていた。
感動した。
これが私の人生、最初で最後の退職金。
ただただ驚き感謝した。

このあたりは、三井不動産関連の会社ばかりで、この店もまた。
私のような者にも、そんな計らいをしてくれる鷹揚な会社だった。



そうして。昨日。
その三越前に行った。
どきどきしながら、街を歩いた。
街はすっかり変わってしまっていた。
店のあった所は「コレド室町」に。

ここに牛、いたんだよなあ。
ここで立ち食いソバ食べてたんだよなあ。
みんな遠い出来事なんだなあ。
でもついこの前のようだなあ。


スマホが鳴って、もうリハーサルだよとの知らせ。
あわてて、ビルの6階の三井ホールへ。
演歌歌手の方々に混じってシャンソンを唄った。
なんだかとても不思議な気がした。
長い旅から戻ってきた気がした。