今、テレビで実家の片付け、なんていう特集をやっている。
両親が施設に入った後の、一軒家の処分。
息子さんは、途方にくれている。

アルバムを手にへたりこんでいるその姿に、そりゃあ、だめだろうなあと思う。
片づけで一番じゃまするのが「情」だ。
これは、お母さんが大切にしてたコーヒーカップだとか、お父さんが最後に新調した背広だとか。
そういう情を持つと、片づけはできない。

先だって、燃えないゴミの日に、フライパンを五つ、実家から持って帰って捨てた。
五つ捨てても、まだまだある。
鍋もある。食器もある。
へたりこみそうな気持ちになるが、時間との闘いだ。
それは、私自身の残り時間との闘いでもある。
50代ならできたことは、もうむずかしい。
情にからめとられていると、時間切れになる。

片付けは、子供の自分がいなくなったあと、どうなるのか、と考えないと進まないものだ。
そうなると、膨大なアルバムとて、全部とっておくことはできない。
中の数枚だけはがして、一つの箱にいれるくらいでいい。
そんな見切りをつけないと、片づけはできない。

度重なる災害で、写真や家など、家族の想い出ごと、あるいは、その家族さえ亡くした人たちをたくさん見てきた。
なあんにも残っていない、そのことのぽっかりとした無残と悲しみを見てきた。
そのせいか、もういいやと思う自分がいる。
思い出の品なんか、もういい。
思い出を想起させるモノなど、もういい。
想いは、胸の中にある。
たとえ、自分がボケることがあっても、それでいい。

そこに想いはあった。
誰かが生きていた、誰かを思った。誰かと思い合った。
それは事実だ。

きちんと思い出の扉を閉じること。
今の使命はこれだ。
とりあえず、子供のいない子供の私が、家族の扉をきちんと閉じること。
この使命は、重い。
重いけど、逃げられない。