「俺は元気だ、元気だぞお」と父親が言う。
このところ、このパターンが多い。
「どこも悪いとこないからなあ」とも言う。
「あと5年くらいはだいじょうぶ」
さっきは、あと10年とか15年とか言ってたのに。

そうかと思うと。
「娘一人でタイヘンだなあ。あと一人くらいいれば良かったなあ」とも言う。
私を心配し、感謝してくれるときは、まったく普通の状態の父親だ。
時々の発言も、当を得ていて、哲学的でさえある。

でも、自分がさっきまで何をしていたかは忘れている。
どこに住んでいて、何を食べたか、はわからない。
一口に認知症といっても、百人いれば百人、千人いれば千人、まったく違うのだろうと思う。
人はほんとに「それぞれ」なのだなあ。
そんなことを、この一年で、つくづく感じる。

昨日、父親のホームに着くと、大声がしている。
叫ぶような男の人の声だ。
面会ホールに進んでいくと、車椅子を倒したように横になった老人と、その顔を覗き込むような女性。
おそらく娘さんだろう。
男性はずっと叫んで(そんなふうに聞こえてしまう)いるし、娘さんはその顔を撫でたりしている。

静かに、そこを横切る。
男性はきっとうれしいのだ。
うれしくてうれしくて仕方ないのだ。
それが「叫び」になっているのだろう。
でも、もしかして、それは「訴え」かもしれない。
不安の訴えかもしれない。
と思ったとき、ぎくっとして、そのぎくっが、自分に刺さった。

父親は、何か訴えたいのではないか。
でも、私はそれを聞かないようにしているのではないか。
だからってどうしたらいいのだ、どうするべきなのだ。
ときどき、この無限ループが襲ってくる。

「お父さま、このところ少し不安なようですね」とホーム長さんが言う。
何かしら、これまでと違う不安が父親を覆いはじめたようだ。
もしかしたら、再発した膀胱がんの影響かもしれない。
ちょっとした、なにかしらの異変を、父親は感じているのかもしれない。

寝ていても、父親の不安が覆ってくる。
また、行こう。
今日は、私一人で、訪ねよう。
できることは、それだけ。
不安。
不安。
不安は、いつも、そこにある。
どこまでも、ついてくる。