父親のホームから帰ってきて。
そのまま、母親に少しそのあたりを歩いてもらう。

ちょうど、斜めあたりの空地に家を建てていて。
それがどうなっているのか、かねてから母親は興味をもっていた。
「見に行ってみようよ」

ちょっと躊躇しながら、でも、しっかりと私の手を握り歩きはじめる。
昨日も書いたが、このコロナ三年間の空白は大きい。
老人には特に大きい。

コロナ前には、支えられながらよろよろと、それでも近所一区画分くらい、コンビニにも寄れた。
そこで働く金髪のお兄ちゃんとお話しするのが楽しみだった。
「地方から出てきて、こっちで一生懸命勉強してるのよ、えらいねえ」とほめた。
「なかなかのイケメンだしね」とも付け加えた。

それが今はどうだ。
よろよろ、ではない。
よちよち、だ。

そのよちよち具合が、本人にはかなり衝撃で悔しい。
なんたって、80代初めまで、ほぼ私と同じペースで歩けた人だ。
真夏でも、自転車で隣駅の歯医者に通った人だ。

こんなはずじゃなかった。
その思いがこっちにも伝わる。
コロナがなくても、おそらく歩みは日毎に不自由になっただろうが、まったく外出できなくなった三年は、気力も体力も奪った。


一歩一歩。
片足ずつをずらすようにして、歩を進める。
この歩き方は、ロボットに似ている。
ロボットなら、途中でひらりと空へ飛んでいくこともできるかもしれないが、ニンゲンはそうもいかない。

空、飛んでいけたらいいのにね。
ひらりと庭先に飛んでくるキジバトやスズメが、これまで以上に愛らしく親しいのは、そのせいかも。

人は、二本の足で歩きはじめ、そして、やがてその歩を止める。
その推移が影絵のように見える。
「人の一生」というタイトルの影絵に見える。