ここしばらく父親のホームに行けなかった。
コロナ下でもあるので、他のご家族と時間をずらさねばならない。
希望する日が、すでにいっぱいになっていることもある。
でも。
こんな状況でも、面会ができるだけ幸せだ。

パーテーション越しではなく、触れることの意味と歓びは大きい。家族にも本人にも。
昨日は、8日ぶりか。
父親が職員のかたに連れられて現れるのを待つ間、どきどきする。
日によって印象が変わるのは仕方のないことで、そんなことに一喜一憂していてもしょうがない。
それでも、一喜一憂する。


8日ぶりの父は、なんだか歳をとってしまった感じがした。
いつものように、母親と抱き合い、また涙を流す。
その脇で、私は父親を触り続ける。
背中や手や爪や腕や、あちこちをさすり、その温度を確かめる。
ちょこっと胸元に食べこぼしの跡があれば、さっそくごしごし拭く。

触ってさすっていると、父親はだんだん柔らかい顔になる。
この人は、きっとこの人なりの闘いを日々しているのだろうなあと思う。
それは対人関係というよりは、孤独というものとの闘いなのだろうと思う。
どのご老人も、きっとそうなのだろう。
いや、ニンゲンすべてがそうなのだろう。


家に帰ると母親がポツンと。
「パパ、寂しいのよねえ」

うん、寂しいだろうねえ。
でも、だからどうする。
全員が死に絶えるまで一緒にいたって、それはそれで寂しいよ。きっと。

母親と今年最後の冷やし中華を食べながら。
「まさか私たち、こんなに長生きしちゃうなんて思わなかった」といつもの話題。
80才の時、心臓を患った父が「今死んじゃうのはちょっと早い気がするんだ、あと5年は生きたいなあ」と私に言い、そこからすぐに病院を探した。
必死で探し、二度手術した。
まさか、そこから14年も元気で暮らしてくれるなんて思いもしなかった。


「あれ、おれ、いくつになったっけ」
毎度同じことを父が聞く。
「94才だよ」と教える。
そして、必ず付け加える。
「もうこうなったら、目指せ、100才!」

気分はもう、長距離ランナーだ。