宗教団体のトップの人の記者会見。
内容はともかく、その声色になるほどと思った。

やんごとなき声のようだ。
天から降りてくるような声だ。
これは、心弱くなった人にはたまらんなあ。
この声にすがる人がいてもおかしくない。

そういえば、公明党のトップのかたの声もなかなかだ。
穏やかで、知的。
見た目もまさに。
そして、その声に合った言葉遣い。

こういう立場の人は、攻撃的だったり、濃い味付け感はタブーなのだな。
どこまでも、紳士的でソフト。


昔。
(こういう言い方はなんだが、もうたいていのことは昔になってしまった)

前にも書いた、突然失踪してしまった高校時代の友人に誘われ、ある宗教団体の会に参加した。
べつだん、アヤシイ団体でもないが、とにかく朝早い時間の会なのだった。

広い畳敷きの会場には、たくさんの方々。
ほとんど女性だった。
そこで、一人一人が、誓いのようなことを述べる。
昨日の反省と、今日の誓い。

違和感は、その言葉遣いだった。
親に対しても、敬語を使う。
「なになにしていただいた」形だ。

すべてのことは自分を成長させる種、と考えているのだろうし、それはそれで良いのだけど、この「いただいた」の嵐は、どうも気持ちが良くない。
すべてを「いただいた」とすることで、大切な本質を隠してしまっているような気がする。
なんでも悪いのは自分、という図式も納得できない。

その友人には悪いけど、しばらくして辞去した。

今思えば、ドライを絵にかいたような、この友人は、さまよっていたのかもしれないと思う。
「クミコには向いてないかも」と言いながらも、その集会に誘ったのも、さ迷う手を握ってほしかったのかもしれない。
もっと言葉を尽くしてほしかったのかもしれない。

それはこれこれこうでヘンだ、とか、これこれこうで気持ちが悪いとか。
でも、私はそれをしなかった。
してはいけない気がした。

もう私たちは大人なのだから、踏み入れてはいけない線があると思った。
もう私たちは高校生じゃない。

でも。今ごろ。
あの時、私は高校の同級生であるべきだったかもしれない。
と、そんなこと、ふと思う。

さ迷う手を引っ張るのは、そっちじゃないこっちだよと引っ張れるのは、理屈じゃない。
かっこ悪いような「感情」だったかもしれない。

ああ。でもみんな今は昔。
今日も暑い。