高校の頃。
大切な友人がいた。

独得な考え方をする女性で、皮肉屋でもあった。
唇のはしっこで、ちょこっと笑う、その表情を今もはっきり思い出す。

最後に、深い「あきらめ」のようなものが残る不思議な人だったが、大学卒業のころ、しばらくぶりに会った。
私のアルバイト先を訪ねてきた。
元気そうだった。

「あたし、ここやめちゃうんだけど、もしよかったらアトガマにならない?」というと「なるなる」と乗り気になった。
とんとん拍子に話は進み、じゃあ、明日ねと別れた。

でも、彼女はそれきりいなくなったしまった。
じゃあ明日ね、の「明日」は永久にこなかった。
なにがあったのか、どこにいるのか、なんの手がかりもなない。

彼女の家が、少し変わっていることは知っていた。
お母さんがキーパーソンのようで、時々引っ越しを繰り返していたことも聞いた。
どうやら「方角」が大切らしかった。

ここここに行くのに、ここを経過しないとダメなの、というような話を聞いたこともあった。
そんな時、彼女独特の「あきらめ」の表情は、より以上に彼女を暗く見せた。

今もその友人がどこで何をしているのか、知らない。
人はこんなに、簡単にその存在を消してしまえるのか。
彼女の人生に、私は必要なかったのか。
そんなやりきれなさが、ずっと残った。


あれって、宗教だったんじゃない?と後々になって、残された友人同士で話すことがあった。
その時にはよくわからなかったが、この世には、私たちの知らない神様を持っている人がたくさんいる。
その神様のために、それまでの人間関係をすべて消去してしまう人も、きっといるのだろう。
そこで流される涙の色は、私には想像もしえないほど様々かもしれない。

最後に見た彼女の笑顔から45年も経つ今、そんなことを思った。


さて。今日はこれから「名古屋パリ祭」。
当然ハイヒールを履くため、懸案の足指はテーピングでしのぎます。
皆さま、ドジな私をご心配くださってありがとうございます。
おかげさまで、なんとかがんばれそうです。
ガッツ。