うちのツガイ。老ツガイの二人。
週に一回は、母親を父親のホームに連れていく。

父親は、まあボケてはいるが、認知症というククリには入れてしまえないようなところもある。
私たち二人のことだけは、きちんとわかる。
(職員の方たちの顔や名前は、無理だなあ)

そして時々、「ムスメには苦労かけるなあ」と、いたわられる。
そのたび、こそばゆいような、申し訳ないような気持ちになる。
母親は、父親がやってくると、すぐに「パパあ」と言って抱きつく。
初めは、そのたび胸が痛くなっていたが、さすがに慣れた。
このくらいで胸が痛んでいたら、これから身が持たない。


老ツガイ二人は、こうして手をとりながら話をする。
「どこも悪いとこないんだよ」と父親が言う。
「アタマ以外はね」と母親が小さな声で言う。

「でも、もう歳だからなあ。あれ、いくつになったんだっけ」と聞くので、また教える。
何十回も何百回も教える。
「そうかあ、それじゃあなあ」

そうだよ、だから、もう走れないし、野球もできないし、自転車も危ないんだよ。
と、説明する。
父親のアタマの中には、いつも動く自分がいる。
きっと、夢の中でも、自由自在に走る自分がいるのだろう。

「でもね、ほら、カラダのほうはもうオジイサンだからね。ころばないようにしないとね」
噛んで含めて言うと、父親はいつも深くうなずく。
そうだなあ、ほんとにそうだなあ。

「父さん、ほら、いい匂いしてるよ、今日お風呂入ったんだね」とぴょんとハネた髪を撫でつける。
私と同じ髪質だ。

歯の治療の時、レントゲン写真を見て、思わず泣きそうになったことがあった。
この歯一本一本、根元のすべてが、両親という命からもらったものなのだなあと、それこそ目が覚めるような気持ちがした。

こうして、髪を撫でていると、また自分の中の命のツナガリを感じる。
母親の髪や爪を切っているときも同じだ。

大きいなあ、広いなあ、命って。

大きくて広いのは、海だけじゃないなあ。

今日は選挙。
どんな選挙も必ず二人で行っていた老ツガイは、もう行けない。
私は、期日前投票を済ませた。
選挙には行く。親から学んだことの一つだ。