私がシャンソン歌手と、胸を張って言えないのは、シャンソンにもフランスにも、まったく精通していないせいだろう。

大学の頃。日比谷公園でデートしていたら、相手がいいところに連れて行ってあげるという。
いいところ、ってなんだ。
と、ついていったらそこが銀座七丁目の「銀巴里」だった。

ドアを開け地下への階段を降りる途中の壁には、フランスの風景が。
そして音楽が湧くように流れてくる。
平日の昼日中に、カルテットの生バンドで、四人の出演者が唄っているのだ。

まったく良い時代だった。
こんな贅沢が、当たり前のようにあったのだ。

唄われているのがシャンソン。あるいはカンツォーネ。
日本のヨーロッパがそこにあった。

どうだ、といわんばかりのボーイフレンドは、その後、「薔薇色のゴリラ」という本をくれた。
歌人の塚本邦雄と言う人が書いたシャンソン評伝のようなもの。
(ちなみに、このタイトルは著者が誰よりも敬愛するブラッサンスのことだ)
そのボーイフレンドは、この塚本氏を敬愛する文学青年だった。

こうして、人さまから教えられ、あっちこっちと、とことこと歩いてきた。
それが今日まで続いている。

いろんな人に出会い、いろんなことを学び、いろんな歌を唄う。
シャンソンもその一つ。
当然その道のエキスパートになれるはずもない。


自分に添うもの。
自分のカラダとココロに添うもの。
それだけが唄う歌の判断基準なので、どこの歌でも、どんな歌でもいい。

なんでこんなことを書いているかというと。
昨日、一通の手紙が届き。
それは30年以上も前に、盛岡や青森でのコンサートを企画してくれた人からのもの。
そこには、打ち上げで、若い私が永六輔さんへの怒りをぶちまけていたが、実はそのコンサート二日前には、永さんから「クミコをよろしく」というハガキが彼のもとに届いていたというもの。

なんだこれ。
永さんへの怒りなんてことも、まったく記憶にないが、若さというのはそうしたものなのだろう。
それより「クミコをよろしく」には参った。

こんなふうに、私は失礼な傍若無人な人生を歩いてきたのだ。
こんなふうに、皆さんのお世話になりながら、そんなことにも思い至らず、まるで自分一人で頑張ったかのように、歩いてきたのだ。

言葉がない。

今なんとか唄えるのは、唄える素地を作ってくれた人たちがあってこそ。
こんなことを、いまさらに思うのだからナサケナイ。

これからどれほど唄えるかわからない。
でも、こうなったら、この先は、好きな歌を好きなように唄いたい。
わがままに唄いたい。
それが、せめてもの恩返しのような気がしている。