女三人の忘年会をした。
原宿に住む友人のマンションの一室で、忘年でもなんでもなく、ただワインを飲んだ。
そのワインでさえ、この頃は、少ししか飲めない。
空ボトルが立ち並ぶなどという景色は、とうにない。
やっぱり歳をとった。

ここ最近、いつも父親の夢を見る。
生きているのに、夢ばかり見る。
夢の中でも、どうしたら一緒に生活できるのだろうかとか、どうしたら寂しい思いをさせないですむのかとか、そんなことを考えている。
もう現実と夢の境がない。

意識を取り戻して夢から覚めても、これからまたコロナ感染者が増えた時のことを考える。
今のように、施設に訪ねていけなくなったらどうしよう。
その心配が黒く闇を塗りこめる。


朝起きてBSをつけたら、この秋亡くなった小三治さんのドキュメンタリーをやっていた。
80歳を過ぎ、あちこちにカラダの故障を抱え、それでも、明日のことだけ思うこの人の執念。
これまでの人生なんかどうでもいい、これからどう生きるかだよ、素敵に生きたいよね、という、この人間国宝はとてつもない。

亡くなる前も何一つ変わることなく、ことんと花が落ちるように亡くなっていたという。
このような死に方、渡り方もあるのだ。


人は死に方を選べない。
選んで、見知らぬ大勢の命を犠牲にする人もいる。
そんな事件も増えた。
なんてえ世の中だ。


さて、来年どうする。
どうにもこうにも、なるようになる。
とりあえず、今日は母親を連れ、父親に会いに行く。
気が重い。
でも、この重さもいつか終わる。
父も母も私も、重さの無くなる日が来る。
それを思うと気が軽くなる。