12月になったとたん、新聞が来なくなった。
初めは、普通の「入れ忘れ」だと思った。

営業所に電話をしようとして、いや待てよ。
コルクボードに貼ってある、いろんな領収書なんかをみたら、あった。
新聞配達の更新が、11月で切れていたのだった。


そうして、数日、新聞のない日が続き。
まったく快適になってしまった。

黙っていてもだんだんに溜まっていく新聞紙の整理をしなくていい。
がんばって読まなくていい。

これまでずっと、偶然に知る日本のことや世界のことや、そんなこんなで、新聞の価値をずっと認めていた私なのに。
これまでの人生で新聞のない時など、なかったのに。


新聞関係者のかたには、本当に申し訳ないけれど、こんなになんともないとは思わなかった。
いや、そのなんともなさが、快適でさえあることの驚き。


案の定、それから二回ほど、営業のかたが訪ねてこられた。
ある時はお米を抱え、これを渡さないと私は帰れません、お渡しするだけで良いのです、とおっしゃる。
でも、私は知っている。
その前に二人で来られた方が、お渡しするだけでなく、玄関でずっと再契約のために粘られたことを。

どなたも背広姿で、こちらもなんとも心苦しいのだけれど、一回知ってしまった快適さを離したくない。


それに。
あろうことか。
親のところが同じ新聞なのだった。

最近は、母親の入浴を待つ間、それを読む。
それで十分すぎる。

こうして「慣習」というのは変わっていくのだなあ。
当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなる。
手離せないと思っていたことが、いともあっさり消えていく。


これは私自身の年齢にも関係ある気がする。
もう、すっかりヨレヨレなので、日ごと溜まるものの整理の余裕がない。
断捨離にもエネルギーはたくさんいるし、もうへとへとなのだ。

ヨレヨレヘトヘト。
それでも、まあ、なんとか今日も生きようっと。