帰りたい、帰りたい、帰りたい。
と父親がいう。

ここではなんにもすることがない。母さんと話したい。
と父親がいう。

娘はなさけないことに、すっかり動揺して、入所の翌日に退所を考えた。
でも、それってやっぱり変だ、とかろうじて冷静になり、介護施設に勤める友人に電話する。
「みんなそうよ、誰でもそうなる」

その言葉にちょっと自分を取り戻し、施設の管理者のMさんとお話をする。
Mさんは、バナナマンの何とかいう人に似た大きな目で、これまで培ってきたであろういろんな経験をふまえ、それに彼自身の慈愛を込め、私を落ち着かせる。


みなさん、そうなんです。
ずっとおられても「帰りたい」とおっしゃる。
最後の最後までそうです。

なんと切ないことだろう。
それでも、帰れない、ってなんだろう。
いや、そもそも「帰りたい」場所ってなんだろう。

そんなの、もしかしたら、ないものかもしれない。
私の父親のように、まだイメージが残る家庭家族がある人もいるだろうが、それも失くした人だった多いはず。
帰りたい、帰れない場所。
そんなことを思って苦しくなる。


父親の部屋で母親に電話する。
「帰りたいよお」と父はいい。
「帰って来なさい」と母がいう。

そうして、二人を引き裂く娘がいる。
老いたロメオとジュリエットを引き裂くのが私か。
益々、胸が苦しくなる。


これなら施設を訪ねないほうがいいのでは、そう言ってくれたらいいのにとさえ思い、Mさんに聞くが。
「いや、来てくださったほうがいいんです」と言う。

こうして、私は父と母を別々に訪ね、時間を共にする。


もうこれ以上家庭では無理だと思った、そのことをすっとばして、そのことを思い出せなくなって、目の前の老親を見て動揺する。
まあ、なんてナサケナイことだろうと思う。

目の前のことしか見えなくなる、なんてレースの競走馬みたいだ。(そんないいもんじゃないな)
そのせいか、スケジュールの「20日用事あり」に、なんの予定があったかいまだに思い出せない。
用事とだけ覚えていたことが、もうすっかりどっかに消えた。

もし、これを読んで、あ、それ私の用事のことですと思われたかたは、ぜひお知らせください。

ああ、ナサケナイ。