永六輔さんが亡くなってしばらくしたころ、お線香をあげに。
中村まり子さんとオオタスセリさんと三人で、原宿のお宅におじゃました時のことを思い出した。

ここに、ベッドを置いて、いつも父はそこから家族を見ていた、というようなことをご家族が言われた。
広い居間だった。
そして、そこが永さんの仕事場でもあったのかもしれない。


そうかあ、こういう介護看護があるのだと思った。
でも、実際に自分がそうなってみて、それほどの広く自由のきく大きさの部屋を持つのは、なかなかに大変なことだともわかった。


それには、階段のないマンションであることが、まずは第一条件かもしれない。
生活のすべてを、ワンフロアで行うには、一軒家はムズカシイ。
そうかあ、こんなこともあるんだ、いやいや、こんなことも、と気づいたときには、もう時間がない。


そんなことを危惧して、以前母親にマンションに移るってことはどうかと聞いたこともあったけど、無下もなかった。
絶対イヤというものを説得するほど、現実が切迫もしていなかった。
でももしも、その時説得できていたら。

もしも、はない。とはよく言われるが、その「もしも」を今考えてしまう。
何かしら、今からできる「もしも」はないだろうか。

あそこにベッドを置いて、父親をそこに寝かせ、いつも人の気配を感じさせ、トイレの世話やらなにかは、人の手を借りる。
あれやこれやとアタマをめぐらす。

いいことばかりではなく、ムズカシイことも、もちろん考える。
心情的なことと、自分の体力的なことも天秤にかける。

どこまでいっても、どうやっても、これで良しはないのだとわかる。
アッチが良くてもコッチで破たんする、そんな危うい天秤だ。


この晩秋から冬にかけての時間は、人の人生のそれとまったく重なる時間になった。
春が来ることを、忘れそうになっている。

いやいや。
春だって夏だって、必ずやってくるんだ。