一か月ぶりくらいに着いた渋谷駅。
案の定、またしても迷路。
これまでの改札口を閉じたり、新しい通路ができたり。
そのすべてが「とりあえず」なので、変化は激しい。

あれ、こんなとこに地下鉄銀座線があるよ、と、これまでどこに行ったかわからなかったホームが見える。
渋谷はこうして、目くるめく変化で、毎日変わっている。
この駅がちゃんと収まるべき所に収まる日まで、自分が生きているのかしらんと思ってしまう。


渋谷には山の手線で行く。
その車掌さんが、やたらしゃべる人で、あれこれの注意ばかりしている。
大声を出すと隣のお客とのトラブルが発生するのでやめてほしいとか、ホームに降りたら、線の外側を歩いてほしいとか。
どれも当然のことだけど、なんで今、さまざまなことをこんなにしゃべっているのだろうと不思議になってくる。


そのうち、渋谷に着くと、「この電車は14分の遅れです。お急ぎのところご迷惑をおかけして申し訳ありません」
これには驚いた。
山の手線は、ぐるぐる回っている。
どこが始まりだか終わりだかわからない。
乗客は、ただホームに来た車両に乗るだけだ。

その電車は確かに業務上は14分遅れているかもしれないが、私たちにはまったくわからない。
なんか、息が苦しくなってくる。

こんなことを報告しなければなならないことになっているのか。
この車掌さんの一存か、あるいは、義務か。
いずれにしても、なんだか息苦しい。


昔、大震災の来る前、湘南にある友人の家にしょっちゅう行っていた。
その時乗った東海道線だったか、湘南新宿ラインだったか。
車掌さんが吃音だった。
発声のむずかしい音があって、そこに来ると、ちょっと間ができる。つっかかる。

混んでいる間にはわからなかったが、だんだん空いてくるとすごく気になる。
私も一緒にどきどきして、汗をかいている。
次の駅は横浜とか、戸塚とか、その音を確かめては、あ、ここムズカシイな大丈夫かなと、もう落ち着かない。
見えぬ車掌さんと一心同体化してる。

思えば、まだのどかな時代だったのかもしれない。
こうしたハンディキャップを抱えた人を雇用し育てる、そのことが許された余裕のある時代だったのかもしれない。


昨日の車掌さんも、きっと息苦しいだろうなあと思った。
何かに追い立てられるように、生きているのかもしれない。
そんな時代になってしまっているのかもしれない。


人の命を預かる仕事。
その重圧と責任が、そこで働く人を追い込んでいないか。
そんな時、関西の福知山脱線事故のことが、いつもすぐ浮かぶ。
昼間にはのどかでがらんとした福知山線の車両を思い出す。