オリンピックはやっぱり陸上なのだろう。
国立競技場のあちこちでやられている種目は、どれもオリンピックの「素」というか「元祖」というか、そんな競技ばかりだ。


走る、より速く走ること。
それがニンゲンの一番の夢だったはず。


速く走れば、自分たちを襲ってくる猛獣からも逃げられるし、ヤリがうまければ、その猛獣を倒すこともできる。
高跳びができたり、幅跳びや三段跳びができれば、危険は回避できる。ニンゲンの生きられる場所が増える。


どっかの洞窟にあるような動物とニンゲンとの関わり、生き合い方から、オリンピックは始まったのだろうなあ。

だから、陸上はなんか特別な気がする。

ただ走る。早く走る。
それだけだ。
ただ遠くへ飛ばす、槍や玉を遠くへ。
それだけだ。

そんな原始的な匂いを持つ競技をずっと見ていた。

そして、走ることに日本人は向いていないんだろうなと思った。
もともと、祖先は走ることをしなかったらしい。

その証拠に、昔の巻物みたいな絵でも、人は走っていない。
走っている、とされる場面、たとえば火事とかの場面では、人はみな両手をあげてわたわた「走っている」。
走り方、というのは、どうやら日本にはなかったらしい。
どう「走って」いいかわからなかったらしい。


獲物を取りに槍片手に獣を追い込んでいく民族とは、どうも違う。
そりゃあ筋肉は全然違う。


ふうむ。
これはもう民族の成り立ち、ルーツの問題ではあるまいか。
いくら努力しても、ムズカシイことってのはあるのではあるまいか。


など、思いながら、夜も遅く11時近くの男子400メートルリレー。
テレビの前で固まって見ていたけど、結果は残念なことに。
ああ、やるせない、と思うと同時に、バトン繋ぎの精密さだけが勝算というありように、そりゃあしょうがないよと思った。

だって、違うんだもん。
やっぱり違うんだもん。
筋肉、違うんだもん。



それと逆に。
空手の「かた」といわれる競技。

なにもわからんで見ていたが、解説者が、「月の光が握った拳から漏れてきて」とか。「はい、最後に月の光をはらうように立って」とか。
その前には、「骨をくだき、目をつき」などといっていたのに。

もう眠狂四郎みたいだ。
田村正和みたいだ。

こんな闘いの詩情や美学なんて、この国ならではだ。


とまあ、昨日も、数種類の競技を見た。
ニンゲンのカラダをじっくり見てあれこれと、思いを馳せるのは、存外楽しい。

見てる間はコロナは、どっかへすっとんでいる。
これからの最大の敵との闘いを、ちょっと忘れられる。