母親の髪切りをする。

これまで行っていた美容室の女性が、年齢的な理由で店を他のかたに譲られたので、私がやるよと、コロナ前から家庭カットが続いている。

ハサミも二本。
ネットで買ったのに、よくできている。
日本の技術はほんとにすごいなあと驚く。
こんなシロウトでも、なんとなくカタチになる、させてくれる。


ただ、母親とのカンケーが良い時でないとできない。
そんなことがあるとは、カットを初めた頃は思いもしなかったが、そんなことはままある。


で。
昨日、昼食前にカットをする。
髪はあったかい。
はらはら落ちる毛一本も、私とつながっているのだと思う。

さっき注意したばかりなのに、また植木鉢の水やりをしている父親もおなじ。

この二人が、私を作った。造った。


そんなことを、先だっての歯医者さんで、歯のレントゲン写真を見ながら、そして、その一本一本の白く映る歯の根元たちを見て今さらに気づき、嗚咽しそうになるほど胸が熱くなった。

この歯一つも、みんな両親が作ったのだなあ。
噛み合わせだって、もともとはカンペキだった、それを、虫歯とかで、いじってしまったからこうなったんだ。

人が人を作ったのだなあ。


命、ってすごいもんだなあ。


そうして、この世に生まれた私だけど、時々、生まれなきゃよかったと思う。
人が老いる姿を見て、なんで人は老い、死ぬために生まれてきたんだろうと思う。
それなら、初めから生まれてこなきゃよかったのに。


そんなこというものではありません。
生まれることは素晴らしいことです。
生きることは尊いことです。
そうなんだろうけど。


今、日を追うごとの、その命の老いの行方の見えなさとの闘いはきびしい。
初めてだもん。93才の人と向かい合うの。

おじいちゃんもおばあちゃんも、一緒に住んでなかったもん。

でも、それは私の両親も同じ。
二人とも、老いた人を世話したことがない。
だから、逆に言うと、世話する人のことがわからない。


「ここに住めばいいのに」と、父親が言うのを聞いて。
「やだよ。死んじゃうよあたし」と小さくつぶやいた。
「女中さんじゃないんだから」ともつぶやいた自分にびっくりした夏の午後。